KUROのブログ

黒崎政男〜趣味の備忘録

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大晦日に届いたアナログ誌。
元旦にパラパラめくってあちこちみていると、

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武田清一氏のジャズ編「思い出の種」と題された記事のなかに、「⑧拙者の御神盤と言えるもので、彼岸や盆暮れは必然、何かにつけ拝聴つかまつる版でござる」という記述を見つける。

「淑女ワイリーの歌声。ああ何ものにも代えがたい不滅の名曲である。」

えっと、私、全く知らない!リーワイリーの名前だけは知っていたが、そんなに名盤があるのか。そこで紹介されていたのは全8アルバムで、最初の7つ(アニタ・オデイやメル・トーメやエラやチャーリー・パーカー)までは、ほぼ見当がつくアルバムたちだった。だが、
⑧Lee Willy/ Night in Manhattan  (columbia CL 6169  10inch 1951年)
は私はノーマークだった。これまで見たことも気にしたこともなかった。 

 ☆

早速はTadalで聞いてみる。いいねえ。上品で味があって、今日では失われてしまった情感に満ちた音楽だ。




オリジナルのジャケットがまたいい。紫色のグラフィック調。
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こりゃ大変だ、早速手に入れなきゃ!ヤフオクを見ると、貴重なオリジナル盤を<即決>で出品している人がいた。そして早速落札。次の日、正月の3日に届いた。そして、今日4日には、もう昔から掛け慣れたレコードのように、リー・ワイリーがターンテーブルの上で楽しそうに回っている。


 

ブルックナー9スコア
(ブルックナー交響曲第九番第一楽章の自筆譜 巨大な音の集合体)


無伴奏と大編成

 

 

私は若いころから、長い間、最高の音楽、もっとも精神性の高い音楽は<無伴奏>だと考えていた。もちろん念頭にあるのは、J.S.バッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001~1006)や「無伴奏チェロ組曲」(BwV1007~BWV1012)であることは間違いない。しかし、なにもバッハだけに限るわけではない。たとえば、普通はなんとなく気楽な曲でみちているテレマンでも、彼の「無伴奏フルートのための12の幻想曲」の崇高性や孤高性はどうだ。あるいは、C.P.Eバッハの「無伴奏フルートソナタイ短調」だとてその幽玄な精神性はなんともすばらしい。

へリンク・シェリングの演奏するバッハの無伴奏バイオリン(グラモフォン、ステレオ盤、1967年)は、それを聞いていると、極めて実存的な気持ちになった。
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私がこうやってここに存在していることの深淵のようなものを抉ってくるような極めて精神的な演奏だった。それは1人の人間が孤高に向かって語る無伴奏だからこそ、と感じていた。演奏は、私からすれば、デュオ、トリオ、カルテットと編成が大きくなればなるほど精神性は薄らいでいく。その頃はこう固く信じていた。

    ★

ところが還暦をすぎたころから、無伴奏とは正反対の、大編成オケの音楽がとても魅力的に感じるようになってきた。例えば、後期ロマン派アントン・ブルックナーの交響曲。その編成の巨大さは、無伴奏のソロ楽器とは対極にある。例えばブルックナー最後の交響曲第九番では、楽器編成はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーンが各3本。ホルン8本、バスチューバ1本、ティンパニ1台、弦楽5部。音は超多彩で超分厚い。楽譜をみれば1ページに6小節しか書けないほど、巨大な音の集合体である。五線譜が25段もある。これが同時に鳴る。巨大なカトリック聖堂に飾られている多くの彫刻の聖者たちが一斉に声をあげてくる感じだ。作曲者自身、どんな音の重なりになっているのか、この楽譜でどのぐらい想像できているのだろうか。指揮者はこの楽譜を見て、どのぐらい具体的に音を想像できるのだろうか。1ページに一曲が書かれてしまう無伴奏とはまったく別の世界である。
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ブルックナーの交響曲第九番を聞いていると、――だいたいは1960年代の名演(オイゲン・ヨッフムやカール・シューリヒト指揮)を当時のLPレコード(初期盤)で聞くのだがーーいや、聞いているというよりは体験しているという感じで、喩えていえば、なにか宗教的儀式のなかに包まれているという体感。きわめて崇高だが深く癒やしてくるような音の洪水。「無伴奏」にあった「精神性」というよりは、むしろ、「魂が浄化される」といった趣である。約60分の法悦の時間があっという間にすぎていく。

      ★

ブルックナーの魅力にとりつかれるようになったきっかけは、しかしながら、精神性や宗教性とかいった問題ではなくて、実はオーディオ・チェック・レコードとして、とにかく巨大編成オーケストラのものを選んだだけ、というきわめて即物的なものにすぎなかった。

 オーディオという趣味は、LPレコードをいかにいい音で鳴らすかという1970年代から80年代にかけて大ブームとなったものだ。当時、多くの家で男子は巨大スピーカーや多くのアンプを並べて「いい音」を出すことに苦心していた。その後、気楽にまあまあの音がするCDipodで聞けるデジタル・ファイル音源などが登場してきて、オーディオブームは大きく下火となった。

だが、実はオーディオ装置は今日にいたるまで、着々と進化を遂げてきているのである。昨今のアナログ盤ブームは、単に昭和へのノスタルジーとしてレコードを聴く、というだけにとどまらず、LPレコードが実にすばらしい音でなるようになって来ていることも要因のひとつだ。当時は無伴奏のレコードは比較的いい音で鳴ったが、大編成オーケストラは、音が団子の固まりになって、ごろんとなるだけ。なんの魅力も感じようがなかったのかもしれない。しかし最新の進化したオーディオ装置でそのLPレコードを聴けば、従来なら分離せず固まりになっていたのがクリアに文節化する。私のLPプレーヤーのトーンアームやカートリッジや回転系モーターのグレードが上がるたびに、編成の大きな音楽が魅力的になるようになった。例えば、オーケストラ内でクラリネットとファゴットのデュオもそれぞれの音色が心地よく聞こえる。全楽器でフォルテシモのフィナーレも音が割れることもなく、きわめて心地よく音楽が鳴り響きわたる。LPレコードからここまでのいい音を引き出したのは、21世紀の我々なのではないだろうか。かつては決してこんないい音は誰も聞けなかったろう。そして、LPレコードの一本の溝(グルーブ)に、まだまだ無限の宝が眠っているようにさえ感じる。
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こんなわけで、無伴奏曲や巨大編成オケ曲にどう魅力を感じるのかは、実はオーディオ装置のクオリティの問題に帰着するのかもしれない。<精神性>から<魂の浄化>への変化は、おそらく<装置>という下部構造に規定されていたのかもしれない。

    ★

鶴田留美子ピアノリサイタル。昨年から、ピアノ協奏曲のオーケストラ部分を室内楽編成にした版を使用して、コンチェルトまでレパートリーを広げる、という手品のようなアイデア。昨年はこのおかげでショパンのピアノ協奏曲2番をサントリーホール・ブルームローズで堪能することができた。今年はそして、なんとモーツアルトの名曲中の名曲、ピアノ協奏曲20番二短調K466だ。なんというど真ん中。27曲あるモーツアルトのピアノ協奏曲のなかでもこの二短調はひときわ最高峰。今日はとても楽しみだ。

 それにしても、オーケストラ大編成と室内楽編成のこの差、オーディオ装置だったら、どういう装置でどう聞くのか、大問題となるのだろうが、ライブだとこの問題は一切生じてこないように思う。なぜだ、なぜなのか。生と録音再生の間にはどんな差があるのだろうか。こんなことを考えながら、今日は鶴田留美子のショパンとモーツアルトを堪能することにしよう。
(この文章は、鶴田留美子ピアノリサイタル'21(サントリーホール9/11)のパンフレットに寄稿したものである)

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鶴田留美子パンフレット表
 


 


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友人がインスタにモーツアルト「レクイエム」でこのCDを挙げていた。気鋭のロシアの指揮者クルレンティスの演奏はきわめて鮮烈らしい。けど、私が反応してしまったのはこのジャケットの絵。なんとも魅力的な絵ではないか。ネットで調べてみると、原画はギリシャ正教の12世紀のイコン画。
あまりにジャケットが気に入ったので、LPレコードとしても発売されていたので、絵が大きく見えるLP版を入手した。回転数が33rpmではなくて45rpm。

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回りでみんなが、ちゃんと天国にたどり着けるか、見守っている。これが「レクイエム」のジャケットになるなんて興味深すぎる。天国にたどり着けない死者もいるよ、っていうことなのかもしれない。指揮者のクルレンツィスはギリシャ出身だから、もしかしたらもともとギリシャ正教のイコンにはなじみがあるのかもしれない。
なんとも新鮮で鮮烈で土俗的なモーツアルトだろう。ワルターのレクイエムを聞き慣れた耳には、おそろしく強烈に響く。

 

再生装置は、LP12 +Klimax DSM + EXZAKT Akudorik
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ところで、この「天国への階段」の絵を眺めていて、ふっと思い出したのが、二年前ぐらいにオークションで落札していた掛け軸。

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なんだか分からないけど面白い絵柄だなあ、と思ってオークションで落札した掛け軸だが調べてみると二河白道図、という伝統的な仏画らしい。浄土教における極楽浄土を願う信心の比喩らしく、手前の岸は現世。上段の岸は来世で、南は火の赤い河、北は渦巻く水の河。うまく渡りきれるか。。

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賊徒や猛獣たちが現世から、追いかけているのやら応援しているのやら。

洋の東西、同じような発想をするものだ、と考えるか、あるいは、東西の文化交流のなかでどちらかが影響を受けたものなのか。ちょっと面白いテーマである。
 

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