KUROのブログ

黒崎政男〜趣味の備忘録

2018年11月

 
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(管球式stereoパワーアンプ(自作)WE205F(右と真中の二本)の単段アンプ。一番左の真空管は直熱整流管RCA80)


 ネット上にあるアラートのシステムはとても便利で、ヤフオクなどでは、自分の選んでおいたキーワードを含む商品が出品されたときには、直ちにメールで知らせがくるようになっている。真空管をネットで半年前ぐらいに購入した名古屋のオーディオショップから、先日、またWE205Fが入荷した、というアラートメールが届いた。アラートを設定した覚えはなかったのだが、見てみると、205Fの管頂プリントのタイプ(通常はベースの袴の箇所に型番がプリントされている)で、より初期型だ。価格もかなり安く設定してあったので、つい購入してしまって(これでWE205Fは8本目)昨日、届いた。さっそくアンプに差して使ってみた。
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(ガラスの上面に205 made in USAという文字が見える。これが管頂プリント)

左チャンネルに差したが、右チャンネルも以前入手してあった管頂プリントタイプにして揃えた。
 なんと音がすばらしい!これまでのWE205D(丸玉タイプ)や、通常のWE205Fタイプに比して、全体的に音が華麗でかつ中低域がものすごくしっかり出ている。あれえ、同じWE205でも、タイプによってそれほど音が違う?!自分でもまだ半信半疑なのではあるが、とにかく音が心地よくて仕方がない。

(試しに掛けたレコード。ブリテン作曲・指揮 シンプルシンフォニーから第二楽章。(録音技師はK.ウィルキンソン) DECCA LPプレーヤーはLINN LP12 (kandid + urika2)+ LINN Klimax DSM    +タンノイ IIILZ(red)


ちなみに、以下が205Fの通常の袴プリントタイプ。隣はさらに初期(1924年~1930年代)のテニスボールタイプ。
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ウエスタン・エレクトリックの真空管といえば、WE300Bと相場が決まっている、と言ってもいいが、半年前にこのWE205D(F)を気に入ってからは、300Bは4本を残してすべて処分してWE205に交換してしまった。

秋葉原の真空管屋AAの店長によれば、普通はWE300Bまでいけばそれでオーディオ人生は上がり、だが、そのうちの一、二割の人が、さらにWE205に進みます。でもほんとに超稀少真空管だしねえ、と言われた。でも、この真空管はマニアの雑誌の表紙を飾ることだってある真空管だ。

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まあ、むしろこの2006年にでた雑誌をバックナンバーとして購入しておいたのが数年前。この表紙を眺めているうちに、無意識のうちに、<いつかは205>となっていたのかもしれない。
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この雑誌によれば、WE205F(プリント・ベース)と、205F管頂プリントでは、ほとんど音質の差はない、と論じられている。ただ、205F初期のもの(管頂)はマグネシウム・ゲッターが残っているが、プリント・ベースのものになると、通常のバリウム・ゲッターになる、との記述がある。
 私のオーディオシステムでは、205Fプリントと205F管頂の差は実に大きい(と少なくとも今日は)感じられた。
 ここまでディテールに入り込むと、とんでもない愉しさと悩みが一緒くたになって私を襲ってくる。


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今月の歌舞伎座は、昼の部がとてもよかった。一本目「お江戸みやげ」は時蔵のお辻が実によく、ほろっとさせるを超えて、涙腺が緩みっぱなし。平成23年4月新橋演舞場の舞台で三津五郎(お辻)と翫雀(現・鴈治郎)(おゆう)で観て大好きな芝居になったのだが、今回は女形の時蔵が演じ、やや若い女性らしさで、芝居の現実味を高めていた。
三本目は河竹黙阿弥作の世話物の代表作の一つ「十六夜清心」。これまでは、この芝居はどちらかというと苦手で、特に「第一場 稲瀬川百本杭の場」は、女犯の罪で寺を追われた清心と、郭を抜け出した遊女十六夜のあまり動きのない長い掛け合いが退屈だった。

  ところが今回は、尾上右近が清元栄寿太夫を七代目として襲名して、初お目見えの舞台。
イメージ 2右近として歌舞伎役者を務めながら、清元の浄瑠璃をうたう栄寿太夫になった。まるで野球の大谷翔平の二刀流のようなもの。その右近が栄寿太夫として、今回この歌舞伎座で、舞台上出語りで初登場するのだから、視線はどうしても役者よりも清元連中に行ってしまう。  
こうやって舞台を観ていると、この清元の浄瑠璃「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいつき)」という曲は、粋で艶でなんて魅力的なんだろうと、この浄瑠璃を味わいはじめてしまう。特に若々しい栄寿太夫(右近)と老練な美寿太夫のゆったりした掛け合いのようなアンサンブルには、すっかり心奪われてしまった。いい清元だなあ。なんて情緒纏綿(てんめん)として心地よいのだろう。
(同じ黙阿弥の作で、「三千歳直侍」での清元の名曲「忍逢春雪解(しのびあうはるのゆきどけ)のほうは「一日逢わねば、千日の想いにわたしゃ患ろうて・・」を聞いたりしていたので、清元を味わうための下地は少し出来ていたのかもしれない。)

 この清元のほうに意識を置きながら、舞台をみると、清心の菊五郎と、十六夜の時蔵の所作が実にすばらしいことに気がつく。浄瑠璃に聞き惚れ、舞台に見惚れて、(以前は退屈だった)稲瀬川百本杭の場は、あっという間に過ぎ去ってしまった。次の場では、ちょいと吉右衛門が登場して舞台の格を上げてくれるし、ほんとにすばらしい「十六夜清心」だった。


家に帰って、さっそくSPレコードの棚を探す。ずいぶん以前だが、義太夫や常磐津や清元のレコードを集めていたことがある。戦前の伝統的な清元は、どんな感じだったのだろうか。あらためて聞き直してみたくなったのである。たしか、五世延寿太夫(戦前)の清元は「十六夜清心」があったか、あるいは、「三千歳直侍」だったか。
 確かにSPレコードで棚に「十六夜清心」はあったが、戦前の歌舞伎劇となっているもの。清元ではなかった。
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清元の名曲、「三千歳」があった。

名人五世延寿太夫のうただ。



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ついでに、同じ曲の清元を梅吉(三味線)+梅美太夫のもので聴いてみよう。かなり感じが異なる。このSPレコードはかつてよく聞き入っていたものだ。
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こうなってみると、ぜひSPレコードで今日の演目「十六夜清心」の清元「梅柳中宵月」を聞いてみたいものだ。いったいどんな感じなのか、とても楽しみである。




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(左) 日本盤  (右) 独オリジナル盤


以前から欲しかった、フルニエ(cello)+セル(指揮)ドヴォルザークのチェロ協奏曲(独グラモフォン盤)のドイツオリジナル盤。ヤフオクで3000円から、で出品されていた。盤面も上々そうだし、競って落札した。競った相手も次々登場してきたので、相当の高値まで上がってしまったが、えいやー、と競り勝った。
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一聴して違うのは、オリジナル盤は、音楽が躍動して生命力に溢れている、ということだ。日本盤のほうは、くすんでしまった死んだ形骸物なのではないか、と感じる。日本盤のほうは、何度も何度も実は聞いていたのだが、いつでもなにかぱっとしない演奏、わくわくさせてくれない形骸なのだ。なぜ、こんなに日本盤なのに聞いていたか、といえば、日本盤とは言っても、赤STEREOでレーベルはtulipのall right、という最初期盤だからである。相当いいはずだ、と思っていたからだ。
しかし、初めて聴いたこの独オリジナル盤は、喜びとわくわく感に満ち満ちている。低域が出ているとか、高音が輝かしい、とか、そういう素材のレベル(質料的)ではなくて、音楽そのものの(形相的)レベルで、違うのだ。
しかも、恐らく誰が聴いても、この差はあきらかだと思う。ひどい。ひどすぎる。
なんということだろう。


まず日本プレスの音。



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次に今回入手したoriginal ドイツプレス(初期盤)。






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発売当時の日本(1960年代~70年代)は、では、どんなだったのだろう。あのフルニエのすごいレコードが出た!すばらしいはずだ。独グラモフォンだ。しかし、日本で発売されたレコードの音は、死んで生命力の乏しい形骸だったとしたら。
 極東の国の人々は、いい演奏に違いない、と自分に言い聞かせて、このレコードを聴いていたのだろうか。当時のドイツグラモフォン社は、極東の国にはどうでもいい劣化したマスターテープしか送ってこなかったのだろうか。それとも日本支社でのレコード製作技術が実にお粗末だったのだろうか。
この差を聞いて、なにかとても悔しい気持ちに襲われた。私が青年時代に聞いていたレコードは、本場のものとはずいぶん違うものを聞かされていた、ということなのか。
 しかし、まあ、いいだろう。いま、21世紀もこんなに経って、50年前の名演が瑞々しい音で生き生きと聴けたのだから。
                  ★
 日本盤のジャケットとオリジナルドイツ盤のジャケットを見比べていると、なんだかフルニエの写真の差が、そのまま音の差を表現している!ように思われてきた。モノクロで動きのない遺影のような日本盤のフルニエと、生き生きとしたカラーで溌剌と演奏しているオリジナル盤のフルニエ。名は体を表す、ではないが、ジャケットは音質を表す、ということか。
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装置はいつものように、LINN LP12(+urika2) (KANDID) + LINN Klimax DSM/2 + WE205D single AMP + Tannoy III LZ (red monitor) である。



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このラファエル=フリューベック・デ・ブルゴス指揮の「スペイン組曲」というレコード(DECCA SXL 6355)1968年は、LPレコードのオーディオ再生の面白さを味わうには最適のレコードである。
Recorded in November 1967 in der Kingsway Hall, London by Kenneth E. Wilkinson / Production: John Mordlen
例によって、ケネス・ウィルキンソンの録音、会場はキングスウェイホールだから、申し分ない。
 このレコードはお茶の水のディスク・ユニオンで1年前に購入して、すぐに私の超マイフェーバリットシングズ(My favorite things)になっているものだ。公開のオーディオサロンなどでもよく掛ける。
 ところでこの1年前に購入したものは、<やや初期盤>であり、ほんとの初期盤ではない。

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このDECCA盤はレーベルのデザインが、年代別に4つのグループに分かれる。ED1~ED4で、この場合は、上段のレーベルが狭いのでED4(narrow band)の時代。そして今回(昨日、e-bayで落札したもの)入手したのは、ED3(wide band)。

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似ているが、上段のバンドが広い。左上がMADE IN ENGLAND となっている、などの特徴がある。これはこのレコードの「初期盤」と見なしていいだろう。そうなると、これまで聞いてきたのは、「やや初期盤」。リリースされたのは、「初期盤」が1968年ぐらい、「やや初期盤」はそれから二三年後、だろうか。


さて、この「初期盤」と「やや初期盤」。音はどのぐらい違うのだろうか。


◆まず「やや初期盤」の方から再生してみる

聞き馴染んだ音の出方である。
プレーヤーはいつものように、LINN LP12 カートリッジがLINN KANDID、urika2を通して、LINN Klimax DSMにEXAKTリンクで入力する。urika2はカートリッジが拾った微少電流を、早い段階でデジタル化してRIAA補正を行う。アナログの最先端なのに(なので)デジタル信号出力なのである。
このLINN LP12(+urika2)という存在は、アナログ=対=デジタル、というような二項対立を超えてしまっている。
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URIKAからURIKA2に変更する場合には、多少勇気がいった。URKIAなら出力が600オームのライン出力で汎用性があるが、URIKA2となると出力はデジタル信号、EXAKTリンクとなる。するとLINN Klimax DSM(など)の装置が必須となるからだ。
比較して、すぐにurika2への更新を決意したが、それもこれも、LPレコードの初期盤がより魅力的な音で鳴ること、の一点につきる。
話しがよこにそれてしまったが、さて、ED3初期盤のほうはどのようになるのだろうか。聞いてみた。

◆次に「初期盤」を再生してみよう。




もちろん、ここには大困難がある。オーディオ装置で再生した音を、再び録音装置を使って収録しそれをなんらかの再生装置で聴く。そういう意味では、オーディオも<その時その場で>聞かなければ本当には分からない、はずだ。
しかし、それを承知の上で述べるならば、やはり「初期盤」のほうが自然で素直な音がしているように感じられる。弦のtuttiの歪み感(0:30, 0:58あたり)がより少ない。初期盤はtuttiになった時にも混濁しない。金管の音(01:16あたり)も素直で自然であり、「やや初期盤」は金管がやや派手になりすぎてうるさい。01:45あたりのベルの音は初期盤になると、さらに透明でクリアになり、なんとも<気持ちいい!!>のである。

「こんな微少な差異を見いだしてどうするんだ!?比較しなければ分からないじゃないか。もう初期盤、初期盤というのはやめよう。。」
自分のなかでもこのような言葉がなり響く。しかしながら、空間性が潰れていなくて深々とクリアに響きわたる初期盤の音楽を聞いてしまうと、やはりどうしようもなくなる。
初期盤フリーク。もう泥沼である。いや、まだ泥沼に一歩足を踏み入れた程度なのかもしれない。



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デ・ブルゴス指揮の「スペイン組曲」 「初期盤」(右)と「やや初期盤」(左)

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