KUROのブログ

黒崎政男〜趣味の備忘録

2019年05月

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 2014年9月のベルリンでの録音だから、もう最新録音、というにはずいぶん時間が経ってしまったのだが、サイモン・ラトルがベルリン・フィルと入れたブラームス交響曲全集。これの謳い文句が

「ベルリン・フィルのメディア史に残る大企画」

というもの。カッティング・マシンをフィルハーモニーの会場に持ち込み、ワンポイント・マイクで(いっさい編集やマスタリングを行わず、たった一組のステレオ・マイクで)拾った音を直接カッティング・マシンにつないでラッカー盤を刻んだ、ものだという。パンフレットにはこうある。

「ワンポイント録音によるダイレクト・カッティング 正真正銘の「生音」を録った究極のアナログ・ディスク」

まあ、考えてみれば、SPレコードはみな一切編集なしのダイレクトカッティングで製作されたので、SPレコードこそ正真正銘の「生音」を録った究極のアナログ・ディスクなわけだが、こちらのLPはその長尺版といえばいいか。SPレコード録音なら最長でも5分だが、こちらは20分近い。修正不可能なオケの一発録り、なのだから見事なものだ、と言えるだろう。

LP6枚セットで8万円を超える完全限定版で国内で発売されたのだが、早いうちに完売していまったのだから凄い。
 発売当時、私はLINNのプレーヤー、LP12入門版を購入したばかりのときで、レコードソフトにそんなに出費できる余裕はまったくなかったし、そのままになっていたのだが、今回、知り合いが貸してくれる、というので、喜んで聞き続けているところだ。


では、聴いてみよう。 

今回使用のオーディオ装置は

LPプレーヤー: LINN LP12Klimax  (カートリッジKandid 、アームECOS、内蔵フォノイコライザーデジタル urika2)

+ LINN Klimax DSM/2 (プリアンプ相当 DAC)

+メインアンプ: 自作真空管アンプ RCA250 (1928年頃の製品) シングルアンプ(トランス結合 前段はWE349A 整流管83(水銀入り))




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+スピーカー: タンノイ IIILZ ( red monitor in original cabinet)

である。

 


ブラームスの交響曲1番の4楽章。
せっかくなら、アルペンホルン(ブラームスがクララ・シューマンにかつて贈った旋律)からベートーヴェンの第九を思わせる、印象的な弦楽の3分ぐらいの箇所(アルプスの山々の風景がみえ、短い荘重なコラールが響き、喜びの弦楽の重奏が始まる)。

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■曲の始まりはあまり音がよくなく、終楽章に向けてだんだん音が圧倒的なものとなっていく?


 音場が透明でいい響きに満ちているように思われるラトルのブラームスだ。
 だた、すべての録音について、なぜか、始まりの1楽章はだいたい音が悪く、楽章が進むにしたがって音がよくなっていく、という印象がある。冒頭はなぜか音場のスケール感がなく、縮こまっている感じなのだが、だんだん音場が広がり充実し圧倒的な音質になっていく、ということだ。
 特に、四番の冒頭や一番の冒頭などは、うーん、そんなにいい音だろうか、という感じなのだ。それが4楽章までくるとすっかり満足した音になっている。私の勘違いかもしれない。何度か繰り返し聴いたが、やはり曲のはじまりは音がよくない。オケの演奏家たちがまだノってきていない、ということもあるかもしれないが、例えばカッティング・マシンが、始めのうちは暖まっていなくて音がよくない、ということはないだろうか。
 あるいは、私のオーディオ装置の暖まり方にも問題があるかもしれない。まあ、とくかく聴き始めはあまりピンとこないかもしれないが、だんだんよく鳴っていくから最後の楽章まで聞き続けるといい、と思うのである。
(このような感じは、例えば、バイロン・ジャニスpとアンタル・ドラディの名盤ラフマニノフピアノ協奏曲第三番のレコードでも、つねに感じてしまうことである。音は始まりの1楽章より、2楽章、3楽章のほうがずっと充実している感じがする。もちろん、実に個人的感想ではあるののだが)



■同一オーケストラで、同一曲を50年前の録音で聞く


 ダイレクトカッティング盤がそれほど圧倒的な音なのか。そう思うと、これまでのLPレコードとどうしても比較してみたくなる。
 じゃあ、というので、同じベルリンフィルの演奏、カラヤン指揮の同曲。1963年録音のものを聞いてみよう。



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実に気持ちのいい演奏だ。録音も最新ラトルと比べても遜色ない(<---きわめてラフで雑な感想だ。まさにこここそが問題の核心であるはずなのに(笑)。詳細な考察はまたのちに)。

 カラヤンの一連のLPレコードは相場が下がっているのか、このドイツ盤tulipALLという超初期盤でもたった1000円でネットで入手できた。ラトルのLPは一枚あたり一万数千円である。新品の値段と中古の値段を比べるのは、軸がずれるのでまっとうではないが、今日、最新盤LPレコードとは一体なんなのか、考えてみたくなる。



■ブラームスの一番、あらゆる名盤を聞き比べたくなる


すると、さらに、ベルリンフィルのブラームス一番、のみならず、さまざまな一番の名演と比較したくなってくる。クレンペラー、チェリビダッケ、ガーディナー。さらにはミュンシュやベームの一番だってある。
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ラトルの最新録音は、それが録音となった瞬間、個別的な時間性や空間性を消失して、歴史的に累積されてきた何百というブラームス交響曲第一番の一つ、という地位に位置することになる。<記録する>というレコード芸術のありようをしみじみ考えてしまうこととなる。

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(中央)ウェスタンエレクトリック社真空管VT-2(1918年頃製造)(右)同WE205F 。自作アンプで、整流管を外してVT-2のフィラメントのみに通電して慣らしているところ。丸球のなかM字型フィラメントがオレンジ色に美しく輝いている。

 どうしても、物事の始原へ、と遡ってしまう。真空管アンプはもう何十年も製作している。オーディオ装置のなかで、プレーヤーなどは自作などほぼ不可能だが、メインアンプだけは、今日でも自作していい音質のものを作ることができる。いや、メーカー製では、古典的な直熱三極管を使用したアンプはほとんど発売することができない(例外的にWE300Bを使用したメインアンプが売り出されることがある。部品を吟味したものだと300万円近くしているものがある。例えば、ナグラ真空管アンプ300iなど。これでも300Bの真空管は中国製の復刻品を使用している。)
 最初のうちは、戦後の銘球といわれた2A3(直熱三極管)などをオーディオアンプの出力管として使っていたが、そのうちになんとか入手できたウエスタン・エレクトリック社のWE300B(1988年製や戦前の刻印もの)をしばらくメインに使い、さらには最も最古の出力管と思われたRCA250(1928年頃製造)を使ってきた。そして最近は、もっぱら、ウエスタン・エレクトリックの最古の出力管と思われるWE205D(1925年頃製造)をメインに使用している。
 しかし、調べてみると、元祖にはさらにその原型などが存在しているもの。205Dのさらに原型と思われるのが、VT-2(1918年頃製造)だ。先日、ヤフオクでVT-2やらWE205Dやらが大量に出品されていて、信じられないほど安価でこのVT-2が一本だけ落札できた。

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まさに真空管の原理の原型、と言った感じで、プレート(陽極)とグリッド(格子)とヒーターを兼ねた陰極の三極が目ではっきりと分かる。まさに直熱三<極>管、である。 VT-2 Western Electric Co. INC. と金属部に打刻してある。

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陽極、陰極、グリッド、の三極からなる内部構造。

さてこんなシーラカンスのような真空管。音はそもそもするのだろうか。
ちょっと聞き、で聞いてみよう。片チャンネルのモノラルで。ワルター指揮マーラー「大地の歌」戦前のウィーンフィル。
イメージ 5デジタルファイル+LINN Klimax DSM+ WE VT-2アンプ +タンノイIIILZ




想像していたよりも遙かにいい音でなっている!
では、ヌヴーのヴァイオリン(1940年代、CD復刻)
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を同じ装置で。

透明度、鮮烈度、に関しては、もしかしたら、WE205Dよりも上か?などと興奮してしまう。


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左からVT-2、WE205D初期型、WE205D後期型。

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「パピヨン」p.75 挿絵 Sautiller et danser(手彩銅版画)(拡大)

グランヴィル「花の幻想」(1847)は花の擬人化だったが、こちらはチョウチョウの擬人化でできた作品。作者のヴァランはもともとグランヴィルの挿絵の彫刻師で、グランヴィル亡きあと、「野菜の王国」1851と「パピヨン」1852の二つの作品(のみ)を世に出した。なんとロマンチックで美しい挿絵だろう。下のように原寸大で鑑賞するのもいいが、このように写真を拡大して細部を楽しむのもさらに楽しい。手書きの彩色がとても丁寧になされていることが分かる。

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挿絵頁だけをもう一度見てみよう。

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回って踊るのが、妖精たちのもっとも魅力的な仕事、云々という題がついている。

 この本を私が入手したのは1990年代後半だったと思う。電子テキストが現れはじめ、従来の紙の書籍はどうなってしまうのか、というメディア論的興味から、古い書籍の形式に関心を持ち始めた時期だ。だからそのころは、ヨーロッパの中世写本(一字一句、手書きで羊皮紙に書き付けられたもので、モノとしての書物の存在感はとんでもなくすごい)をはじめ、何十回も重ねて刷られて1頁が出来上がるようなアールデコ期の多色刷り版画(あるいはポショワール)本などに深い興味を覚えた。人間の労苦の詰まった書物が、一瞬にして複製可能で物質としての存在を持たない電子テキストと対比して、ものすごい魅力を放っていると思われた。
 そんな中で、フランス19世紀半ばの、グランヴィルやこのヴァランの書籍は、銅版画で刷られた絵に、一点一点、手で水彩の彩色を施す、というとんでもなくエネルギーが籠もったものたちだ。
 書誌情報は次の通り。
 Varin, Amedie
Les Papillons M?thamorphoses Terrestres des Peuples de l'Air.
Paris: Gabriel de Gonet(1852)
 hand coloured steel engraving & woodcuts.
275x185mm,232&258pp



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これは、上下二巻で、発行当時の未製本のまま、約170年前のものが私のところに伝来(笑)してきたもの。フランスのこうした本は未製本で発売され、買い手が好みに合わせて製本させることが通常だったと思われる。前回紹介したグランヴィル「花の幻想」の二冊もそれぞれ購入者が自分で製本させたはずである。

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下から「花の幻想」1847年版(赤)、1867年版(黒)、「パピヨン」未製本二冊


もうすこし頁をめくってみよう。

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これが表紙だが、右上表題の PAPILLONS (パピヨン)は、蝶の幼虫で形づくられていることが見て取れる。

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これは蝶々とトンボの婚礼の様子だと思われる。かなり怪奇な絵だが、部分を拡大してみると実に細かい銅版画と彩色である。

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こうやって簡単に拡大して細部を鑑賞できるのは、デジタル写真のおかげである。書籍の1頁をiphoneなどで簡単に撮影し、それを写真整理ソフトなどで、一部分にトリミングするだけ。それを通常の大きさで見れば、このような拡大図に簡単になってしまう。
二十年前に鑑賞したのとはまた異なる鑑賞の喜びが現代では可能となった。

 最後に魅力的な画像をいくつかあげておくことにしよう。

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下から1867年再版本(黒)、1847年初版本(赤)、1993年日本語翻訳版



 先日、オークションで、Jean-Jacques Grandville “Les Fleurs Anim?es" (J. J. グランヴィル『花の幻想』)1867年再版本が出品されていたので落札した。これの初版(1847年 Gabriel de Gonet パリ フランス・全二巻合本)はすでに所有していたのだが、初版本と再版本では、どの程度レベルが異なるのだろうか、ということを知ってみたくて入手してみた。
 例えば、LPレコードの初期盤と後発盤では、通常、初期盤のほうが音がいい。音の鮮度がいい。空間感が潰れておらずに保たれている。ライブ感に溢れている。これが後発盤になると、みな劣ってしまうのである。レコードはプレス製造品なので、ちょうど浮世絵の初刷りと後刷り、書籍の初版と再版の違いと同様の構造を持っているのではないか。
 そう思って、初版は所有しているにもかかわらず、再版本との差を検討してみたくてこの「花の幻想」1867年版を入手したのである。

 19世紀から20世紀にかけてのフランス挿絵本の魅力的な世界は、荒俣宏が1980年代に先駆的に紹介してくれたおかげで、私も(彼のいくつかの書籍(『ブックス・ビューティフル~絵のある本の歴史』など)によって)この分野の魅力に開眼させられた。特にフランス、アールデコ期のバルビエやシュミドの多彩色版画の数々は圧倒的な魅力を放っている。そして、19世紀半ばの本として、まだカラーの印刷技術が未発達だったため、この本は、モノクロの銅版画に、水彩でひとつひとつ手で彩色していったもの。内容は、花を擬人化したロマン派のセンチメンタリズム満載のもので、どちらかといえば文章よりも絵を楽しむべき書物だ。

さて、この再版本の表紙を見てみよう。
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この本の挿絵は上下合計で全52葉が収められているが、すべては、一点一点、水彩で手書きして色を載せていったもの。(だから同版でも、同じものは存在していない)拡大してみよう。
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こまかく水彩で色が描き込まれていっている様子がわかる。言ってみれば、塗り絵のようなものだから、見ているだけで楽しくなる。しかし、初版をすでに見た眼からすると下地の銅版画の線がちょっとぼんやりしていてシャープさに欠けるように感じられる。色の塗り方もちょっと雑な感じである。



◆初版1847年のプリントと彩色

では、次に初版1847年版の同じ箇所を見てみよう。まずは1頁分。そして、部分拡大図である。

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初版 初頁


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初版本(1847年)の初頁拡大である。もう一度、下に再版本(1867年)を表示する。
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(再版本(1867年)の初頁拡大)

明らかに、初版本のほうが、すがすがしく、鮮明で、立体感があり(女性の身体も、手で巻いているamimeeという文字も)、右下の文字群もクリアで気持ちがいい。彩色も初版のほうが細かいところまで丁寧になされている。

このように、おなじ書物でも、初版と再版では、(基本的には通常)、あきらかに初版が質が高い。

続けて、この初版本をランダムに頁をめくってみよう。
サクラソウとマツユキソウの頁だ。
(マツユキソウは冷たい雪の中から力を尽くして咲き、友達のサクラソウを起こします。)
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なかなか清らかな筆のタッチだ。拡大しよう。

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◆おなじ箇所を再版本で見る

では、この箇所の刷りは、再版本1867年ではどうなっているだろうか。

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拡大してみよう。
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なんとも、初版のすがすがしい描きを見たあとでは、この再版は立体感も消失しているし、絵の具も派手で雑になっている、というしかないだろう。

                    ★
このような差を体感してしまうと、どうせ所有するなら初版本がいい、ということになってくる。その品質の差は明らかだからである。そしてここからが泥沼だ。このグランヴィルの初版はすばらしいが、では、もっとも最初の刷り、初版初刷りなら、もっと質が高いのではないか。もしグランヴィルの初版初刷りの版があったらどうしても入手したい。このような泥沼だ。

 そして、このような構造はLPレコードの初期盤問題にもぴったり当てはまる。初期盤のすばらしさを一度体験してしまうと、さらなる初期、ファーストスタンプ、ファーストプレス、の最初期盤を欲しくなってしまうのである。マーキュリー盤で1950年代後半のとてつもなくすばらしい録音のアンタル・ドラティ指揮「火の鳥」や、バイロン・ジャニス(p)のラフマニノフピアノ協奏曲3番などの、レコードはもっともその差が明らかになる、魅力的なレコードたちである。


最後に、ひなげしの頁を日本版、後発版、初版の順番でお見せしよう。この絵に関しては、それほどの差がなく感じられるかもしれない。いかがだろう。

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(日本版表紙)

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(再版)



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(初版)










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