ふとした偶然で、久しぶりに月刊『レコード芸術』(音楽之友社)の4月号を購入。見てみると、2001~2020年の二十年間に発売されたCDたちのうちから、ベストディスクを選び出そうとする企画。ここしばらくは、1960年代を中心とするLPレコード全盛時代の盤(それの初期盤)ばかり聴いていたので、この視点はとても新鮮だった。さっそく読みあさる。そしてCDを何枚か注文して手元に届いた。
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20年間のなかで最高の第一位は
グザビエ=ロト指揮ストラヴィンスキー「春の祭典」(2013年)
で、これぞ「時代を変えた」一枚とされている。フランス式のピリオド楽器をつかい、一般的な<春の祭典>とはまったく異なるサウンドが随所で炸裂する衝撃的な演奏、とある。
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その通り!と膝を打つ。このCDは発売当時から、私の愛聴盤となっていて、この一枚に刺激されて、私はほとんどすべてのグザビエ=ロトのCDを持っている。 きわめて鮮烈で新鮮な響き、とても魅力的なサウンドでさまざまなクラシック曲を演奏している。このブログでも以前書いたかもしれないが、一昨年の来日のときには、初台のタケミツホールで、ラヴェル「ラヴァルス」の炸裂に身体中痺れさせられた。
 この「春の祭典」の従来の決定盤といえば、ショルティ指揮シカゴ交響楽団のDECCA盤(1974年)だが、ロトの演奏を知ってしまうと「名演LP初期盤の愉しみ」 の世界が脅かされてしまう感じだ。

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■クラシック音楽の源泉・中世マショーの「ノートルダムミサ」を多民族的・本性と情動むき出しの演奏


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さて届いたCDのうちで、まず興味を引いたのが、「グランドラヴォア演奏:マショー・ノートルダムミサ曲」(2015年録音)。このアルバムはベストディスク100に選ばれているのではなく、2019年度のレコード・アカデミー賞の音楽賞部門に選ばれた、としてこの4月号で大きく取り上げられていたアルバム。
このグループ名<グランドラヴォア>はどう読むのか、と思ったら、ロラン・バルトの著書「grain de la voix」(声の肌理(きめ))から来ているということ。

 


一聴して分かるように、なんともパワフル。そして、非=均整的、非=調和。
かつての二十世紀後半の中世・ルネッサンスの古楽演奏は、もっと透明で澄み切っていて天使的な響きが基本だった。たとえば、D・マンロウ指揮のG・デュファイ「ス・ラ・ファセ・パル」を聴いてみれば分かるように、純度が高く、安定した調和的な響き。深いところで癒やされるような音楽の演奏だった。
 それがどうだろう、このシュメルツアー&グランドラヴォアの演奏は、きわめて多国籍的。東方やアラブやイスラムが混在していて、音程も従来の純正調的な観点からしたら、微妙にはっきりとズレている。誌面での矢澤孝樹氏の表現を借りれば「民族音楽的な要素や、中東、アラブ方面から入ってきた要素などが混ざり合った、もっとごしゃごしゃしたカオス的なもの」であり、「もっと野太い強烈な生命力、強烈な個性が生々しく響く音楽」となっている。
 二十世紀が表現してきた清らかで調和的な西洋中世。これに対して、二十一世紀の音楽は、混沌として移民に溢れテロに揺らぎイスラムが混在し分裂の兆しをはらむEUを象徴するような分裂と多様性に満ちた西洋中世を表現しているようだ。


 しかし、清らかで天使的透明さに満ちた二十世紀後半の中世音楽が、ある種の虚構だ、という感覚は、すでに、ウンベルト・エーコの小説を映画化したアノー監督『薔薇の名前』(1986)で表現された猥雑で混沌に満ちた中世像を見て、すでに知っていたはずだ。
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 ■ポストモダン的西洋としてのグランドラヴォアのミサ曲演奏


「ポスト・モダン」とは「近代(モダン)」を乗り越えた後にくる時代区分だが 、それはどんな時代なのだろうか。今日のポスト・モダン的状況。それは「プレ・モダン」に後退することなのか。ドイツの現代の哲学者マルクス・ガブリエルは新実在論を唱えて、なんとか「なんでもあり・混沌の」ポストモダンを超克しようとしている。その思想的試みが正鵠を得たものなのかは判断を控えるが、

とにかくグランドラヴォアが表現するクラシック音楽の源流としてのマショーのミサ曲が、 きわめて21世紀的なポストモダン的表現であることは間違いない。