【鶴田留美子ピアノリサイタル2018/9/8 サントリーホール(ブルーローズ) パンフレット】に寄稿した文章の再録
音楽とは、だいたい最初は曲目で聴きはじめるものだ。昨日はベートーベンの「田園シンフォニー」を聴きました、今日はモーツァルトの「幻想曲K.397」を聴きました、といった具合。それで少し興味が進んでくると、だんだん、演奏家や指揮者で聴くようになってくる。フルトヴェングラーはすごい。カルロス・クライバーの実況演奏はいい。グールドのピアノが好きだ。このようになってくるのが普通だろう。
そのうち、次第にレーベルで聴く、ということが起こってくる。バッハを中心とする精神的演奏なら(リヒター指揮やヴァルヒャ演奏のオルガンなどの)ドイツ・アルヒーフ盤で。ヴィオールやリュートなど古楽ならば(J・サバールやH・スミスの)フランスのアストレ盤で聴く。
高校生でLPレコードを聴いていた頃、ヴァイオリンのワルター・バリリやクラリネットのレオポルト・ウラッハ、若きピアニストのイェルク・デムスなどを録音していた、古きよきウィーンの香りのするウエストミンスター盤が大好きで、そのレーベルを意識して入手していた。特に気に入っていたのがウラッハ。かつてウィーン・フィルの主席クラリネット奏者をつとめたウラッハの音はウィーン式楽器を使用していることもあって、端正で優雅ながら実に憂いに満ちた音色で心に沁(し)みた。絶品のブラームス「クラリネット・ソナタop.120」二曲や「クラリネット五重奏曲op.115」。モーツアルトの「クラリネット協奏曲K.622」や「クラリネット五重奏曲K.581」など(ウラッハはLPやCDでも幾度となく再発売されているから一般にも人気があるのだろう)。
ウエストミンスター・レーベルは、1949年にアメリカで設立され、主に五十年代のウィーンを中心に活躍した演奏家を収録した独立系レーベルのレコード会社。ロンドンのビッグベンをあしらったレーベルと、Natural Balanceを謳った高音質録音で高い人気をほこったが、1965年にはABCレーベルに買収されて消滅した。
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私は二十年前に、一度すべてのLPレコードを処分したあと、CDやネット・オーディオなどでLPレコード時代の演奏を聞いてきた。だが、つい二年前に、レコードプレーヤーを再導入し、ふたたびレコードを掛け、カートリッジで音楽を聞くようになった。
というのも、(現在登場してきた)音楽配信サービスで音楽を流したり、デジタルファイル再生では、どうしても、ながら聞き、やBGM的聞き方になってしまい、演奏とちゃんと向き合って聞くことがなくなってしまうような感じがしたからだ。レコードという手に触れることのできる物質、および、その音楽を表現する30cmレコードジャケットの存在感。それらを媒介にしてこそ、真摯に演奏に向き合える、と思ったのだ。
現在、LPレコードの収集復活にあたって大量にレコードを再購入。LPレコードは今日、店頭やネットオークションなど充実した中古市場が確立していて、百円単位の値段(ただし初期盤やオリジナル盤となると数十倍以上の価格となるが)で入手できるのである。それで、今回、ウラッハやデムスなど、結局、ウエストミンスター盤を中心に買い集めていたところ、そこにクララ・ハスキルの「ドメニコ・スカルラッティ 11のピアノソナタ集」(1950年録音)というレコードがあることを発見した。ハスキルは、リリー・クラウスやイングリット・へブラーを含めた、当時の有名女流ピアニストの一人、ぐらいの認識しか私にはなかったので、初めて聞いたハスキルのスカルラッティのあまりのすばらしい演奏に驚愕した。その演奏は、優雅で繊細な音、深い陰影があり、まろやかだが芯が強い、と言うだけでなく、冒頭の「ソナタ嬰ハ長調L256」の演奏からして、あたかもこの世のものではない、幻想的というか霊界的な、といおうか、そんな演奏だったのである。スカルラッティといえば、ホロヴィッツの演奏にトドメを刺す、と思っていた私はこのハスキルの演奏に惚れて、すっかり愛聴盤になってしまった。ネットで調べてみると、この演奏は<永遠の名盤としてよく知られたもので珠を転がすような妙音が法悦境に誘う>という記述に出会った。あるいは<この盤がウエストミンスターにおけるハスキルの金字塔>ともあった。このレコードは永遠の名盤として以前からよく知られている・・。知らなかった、とウエストミンスター盤好きの私としては、恥じ入ってしまった。
そこで、次々にハスキルのLP盤を買いあさったのである。その一枚を挙げてみるなら、ドイツ・グラモフォン盤のモーツァルト「ピアノ協奏曲27番K.595」(1955年録音)。クララ・ハスキルのピアノ、フリッチャイ指揮バイエルン州立オーケストラの演奏。稀代の名演!の一言に尽きる。調べてみると、このハスキル=フリッチャイ盤も「永遠の名盤、歴史的名盤としてとても有名な演奏」なのだそうだ。どの分野、どの世界に行っても、必ず自分の知らなかった名盤が存在していることに、いつもびっくりさせられる。
長年こうして、ずっとレコード音楽を聞いてくる中で、いつでもまだ私の知らない<永遠の名盤>が存在していること。また、半世紀にもわたって、同じ演奏(例えば、ウラッハのクラリネット盤)を聴き続けて飽かないこと、そのことにも感慨を覚える。もう五十年近い時の流れである。
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先日、久しぶりに秋葉原のラジオデパートを訪れた。LPレコード再開に際して、自作の真空管アンプの調整に入っていたからだ。このところ、真空管アンプの音が急速に痩せてしまい、それが両チャンネル同様だったので、すぐに電源部の問題だろうと思った。整流管を見てみると、水銀の膜がほとんど消失し、みるからに整流管の寿命が来たのだと分かった。
RCA83は水銀入り直熱整流管で、約30年前に秋葉原で購入。さまざまな機会で使ってきて、ここ数年は集中的に使用したためにへたったのだろう。「RCAのタマはさすがにないが、イタリア製のFIVREの83ならあります。マニアの皆さんにはこのイタリア製83は音がいいと人気です」と、ここ10年ほど買っている2階の真空管専門店の店主は言った。どんな世界でもマニアというものは存在しているのだなあ、と半ばあきれながらも購入。しっかり根を張って天まですっと伸びた大木のように安定した音になった。クララ・ハスキルのピアノはさらに魅力的な音色になった。あまりにいい音だったので後日、もう一本予備に購入。これで私の残りの人生、83で困ることはないだろうと安心した。
ラジオデパートは、30年以上前に初めて訪れたときにもそれほど新しいビルとは思えなかったが、いまだにちゃんと機能していることには驚く。地下のトランス専門店も3階の真空管専門店も、店はそのままで店主はそれぞれ三代目。おじいちゃん死に、お父さん死に、息子さんがそのまま店を継いでいる。私はまるで萩尾望都の「ポーの一族」になったかのように、店の前を通り過ぎるのである。
時が流れても変わらないもの、変わっていくもの、それは自分自身の存在も含めてなのではあるが、我々が「時間的存在者」であることを改めて、思うのである。