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『惑星ソラリス』は、アンドレイ・タルコフスキーの監督による1972年の旧ソ連の映画。この作品は、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)と比肩されるSF映画の傑作である。
タルコフスキー監督は『僕の村は戦場だった』(1962)、『鏡』(1975)や『ノスタルジア』(1983)などの多くの名作を残したが、中でもこの『惑星ソラリス』は圧倒的なすばらしさであり、タルコフスキーの名を不朽のものにしたと言える。荒廃した宇宙ステーションを舞台に、独特の映像美で、カットも途切れず延々とカメラが回り続ける。
 惑星ソラリスの表面全体を覆う<海>は、知性を持つ巨大な存在で、複雑な知的活動を営んでいる。主人公の心理学者クリスは、美しい緑と水に囲まれた地球の我が家をあとに、謎の惑星ソラリスに出発する。ソラリスにある観測ステーションは原因不明の混乱に陥っていて、その原因究明と打開のためだった。そして到着した宇宙ステーションは異様な静寂と甚だしい荒廃が拡がっていた。
 幾日かして、突然クリスの前に10年前に自殺したはずの妻ハリーがあらわれる。驚いたクリスはそのハリーをロケットに詰め込んで宇宙に飛ばしてしまう。しかし、また、何事もなかったように妻ハリーが目の前に現れる。妻ハリーは、実は、ソラリスの海が送ってよこした存在で、<海>はクリスの潜在意識を探り出してそれを実体化していたのである。つまり、ソラリスは、主人公の記憶を再合成して、自殺した妻を主人公の前に送り出してきているのである。妻の自殺に悔恨の思いを抱いていたクリスは、狂気のふちに立たされながら遂には幻のハリーを愛するようになる。
 このようにして、タルコフスキーの映画はかなり深遠な形而上学的問いを突きつけてくる。そして全編を通して、たった一曲の音楽だけが使われる。
 それがバッハのコラール・プレリュード「主イエスよ、私はあなたを呼ぶ」へ短調(BWV639)である。失われたものに対する哀惜の念をやるせなくかき立てるような、感情の深いところを揺さぶるような音楽である。アンドレイ・タルコフスキーの映像とスタニスワフ・レム原作の内容に合わせると、魂の内奥をえぐるような響きを醸し、まさに奇跡的、ともいえる絶妙さでマッチしている。
 もう一つのSF映画の傑作、キューブリックの『2001年宇宙の旅』の音楽は、ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」、現代音楽のジェルジ・リゲティ、そしてリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」などが極めて効果的に使われていて、それがこの作品を不朽の名作にした。だが、アメリカの『2001年』(1968)を意識し、それに対抗するように製作されたソ連の『惑星ソラリス』(1972)は、全編を、たった一本のバッハのオルガンコラール(シンセサイザーで演奏されている)だけで覆い尽す。この音楽は映画全体のモードを見事に統一している。
 映画の最終場面。妻ハリーももう出現しなくなり、一応、クリスは地球へと帰還することになった。映画冒頭で出発前に散歩していた美しい緑と水に囲まれた我が家に再び帰ってくる。喜ぶクリスだが、なんとなく光景がおかしい。なぜか建物の家の中だけに雨がふっているのである。そしてカメラが突然、後方に引いていくと、沼や緑や家の全体が見通せる。さらにカメラを引いていくと、その家などは、なんと、惑星ソラリスの海に浮いている我が家だったのである。そこは地球ではなくて、いまだソラリスの海のなかだったのである。なんという絶望的なことだろう。なんという救いのなさ。
 
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惑星ソラリス (1 - 1)
1977年日本上映当時のパンフレット、
岩波ホール


 
 いまこの映画を、you-tubeで探してしばらくぶりに見直してみる。ワンシーンが極めて長く、映像が深く重く場面展開もほとんどない全編165分の長時間映画。1970年代には夢中で観ていれたものだが、21世紀の我々には全編をじっくり見通す力が欠けてしまっていることに否応ナシに気づかされる。こんな場合には、この映画の中で最も有名な「無重力シーン」(3分程度の長さ)だけでも観てみるといい。蝋燭立てが、空中をゆっくりと浮遊して天井の大きなシャンデリアに触れる。シャリーンと音を立てる。そしてくつろいだ様子のクリスとハリーが空中浮遊をしているような映像となる。このシーンでも、「主イエスよ、我はあなたを呼ぶ」BWV639が深々と鳴り渡るのである。
 この曲は、バッハのコラール前奏曲集の中でも、もっとも人気のある「オルゲル・ビューヒライン」(オルガン小曲集BWV599〜644)に納められた一曲である。私はこの曲集は、ヘルムート・ヴァルヒャ(オルガン)が弾くアルヒーフ盤二枚組のLPレコードが愛聴盤なのだが、バルヒャのこの曲BWV639の演奏は、まったくさっぱりと演奏されている。あっさり、さらり、と終わってしまうのである。絶望も救済も感じられない。


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 しかしこの曲のすばらしい演奏がある。夭折の天才ピアニスト、ディヌ・リパッティが残した演奏。ジュネーヴで1950年7月、亡くなる半年前にスタジオ録音されたものだ。ここには演奏家の深い思い入れが感じられる。それは特に、曲の終わりのカデンツのところ。ずっと短調の響きが続いてきたのだが、最終和音で、短調の響きから、最後の最後、ふっとうっすら明るい長調の響きに変わる。as(変イ音)で終わるべき第三音が半音上がってa(イ音)になっている和音のようだ。これはブゾーニがピアノ用に編曲したものではあるのだが、このコラールは、あたかも、魂の深い絶望と救済へのかすかな希望が表現されているように思われる。


再生装置 EMT930st + WE205Fppアンプ + タンノイsilver 38cm  同軸2way in EMG box

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25cmLPレコード リパッティ「バッハ集」columbia Pathe Marconi



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(この文章は、「2019/9/7 鶴田留美子ピアノリサイタル(サントリーホール)」のパンフレットに寄稿したものである。次の文章で締めくくっている)
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 今日の鶴田留美子ピアノリサイタルでは、二曲目でこの「主イエスよ、私はあなたを呼ぶ」BWV639が弾かれることになっている。鶴田はどんな演奏を聴かせてくれるのだろうか。とても楽しみにしている。といっても、この曲はわずか3分足らず。心して耳を傾けよう。

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