宮沢清六は『兄のトランク』(ちくま文庫)の中で賢治について次のように述べる。
「『繰り返し繰り返し我らを訪れる運命の表現の素晴らしさ。おれも是非共こういうものを書かねばならない。』と言いながら書き出したのが『春と修羅』である。つまりこのころ兄の書いた長い詩などは、作曲家が音譜でやるように言葉によってそれをやり、奥にひそむものを交響曲的に現したいと思ったのであろう。」(p54)

 宮沢賢治(1896~1933)が日本でのもっとも初期のクラシック・レコードの愛好家であることは知られている。大正時代だが、当時、ポリドール会社では割合とたくさんの新譜が、花巻という田舎町の楽器やで売れるので、この店に感謝状を送った。さらに調べてみると、それは「主として一人の風変わりな農学校の教師だけが買っている」(清六『兄のトランク』p55など)ということが分かったが、その教師とは、すなわち賢治のことである。また米ぬかで処理した竹針を造っては、米国のヴィクター社に送ったこともある。
 
 その賢治は、まず、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」をSPレコードで聴き、「運命の動機」が全楽章を通じて随所に現れることを<繰り返し繰り返し訪れる運命の表現>と現して感歎する。そして、心象スケッチ『春と修羅』(1924年発行)は音楽手法を文学手法に置き換える形で着想、生成されたものである、と考えられる。(萩谷由喜子『宮澤賢治の聴いたクラシック』解説本(小学館、2013年)20頁など参照)

■賢治の聴いた「運命」のSPレコード

賢治が実際聴いたであろうと推測されているベートーヴェン「運命」は(賢治の音楽論の先駆的研究である)佐藤泰平氏によれば三種類ある。(佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』(筑摩書房,1995年)、および萩谷2013)

ニキシュ指揮ベルリン・フィル(1913年)
パスターナック指揮ヴィクター・コンサート管弦楽団(1916年)
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル(1926年)

ここでは、ベルリン・フィルの歴史上初録音となったニキシュ指揮の「運命」を聴いてみよう。


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ベートーヴェン交響曲第五番運命 第一楽章(part1) EMGinn Expert 竹針で聞く。

 


次は、HMV#202で鉄針(太・金色)を使って、続きを聞く。



 
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これが、まだ機械吹き込み時代の録音か、と思うほど、よく取れている。このレコードは「運命」の初録音盤として長い間見なされてきたものでもある。ニキシュの指揮についてはチャイコフスキーが「魔術に没頭するような」演奏だ、と評したらしいが、確かに、きわめてデモーニッシュな演奏で、のちのフルトヴェングラーの演奏の先駆的なもの(あるいはフルヴェン以上にすごい演奏かも知れない)だと感じさせる。



■明治時代、蓄音機が 出回りはじめたころ(1910年頃)日本で聞かれていたレコードは長唄、常磐津、義太夫、浪花節、落語など邦楽中心


 このように、<洋楽>、クラシック音楽がレコードに録音され世界中に広がることによって、大正時代の極東日本の一地域にいた青年にまで、大きな影響を与えることになったわけだが、その日本において最初にSPレコードとして広まっていた(明治時代)のは、いわゆる<邦楽>だけであった。

弟の清六は「兄とレコード」のなかで次のように述べる。

「私は小学校に入るまでレコードというものは浄瑠璃だけしかないものだと思っていた。というのは明治四十年ごろはまだ蓄音機が珍しかったころで、私の家では祖父も叔母も両親も義太夫が好きだったので、勢いレコードも越路太夫とか豊竹呂昇などの吹き込んだものしか私の耳に入らなかったからである」p52

つまり、この兄弟の家には早くから蓄音機はあったが、義太夫ばかりで、あまり興味を示さなかったということだ。そして、「大正七年頃に私共は初めて従兄のところで洋楽のレコードを聞いて」賢治は大感動を覚えたわけである。



ここでは、宮沢家で鳴っていたという義太夫、豊竹呂昇が1908年頃に吹き込んだ絵本太功記十段を聞いてみよう。(この12インチ米国victor盤の呂昇は、かなり長い間探し回って、ようやく入手できた私にとっては稀少盤である。)

明治時代の音楽環境はこのような感じだったである。

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おのれが心たゞ一つで、験しは目前これを見よ。武士の命を断つ、刃も多いこの様な、引つそぎ竹の猪突き鑓。主を殺した天罰の、報ひは親にもこのとほり」と、鑓の穂先に手をかけて、ゑぐり苦しむ気丈の手負ひ、妻は涙にむせ返り、「コレ見たまへ光秀殿、軍の門出にくれぐも、お諌め申したその時に、思ひ止つて給はらば、かうした嘆きはあるまいに、知らぬ事とは言ひながら、現在母御を手にかけて、殺すといふは何事ぞいなう。せめて母御の御最期に、『善心に立帰る』と、たつた一言聞かしてたべ。拝むわいの」と手を合はし、諌めつ泣いつ一筋に、夫を思ふ恨み泣き、操の鑑曇りなき、涙に誠あらはせり。(床本 尼ヶ崎の段)

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歌舞伎や文楽で、義太夫節が大好きとなってしまった二十一世紀の日本の私にとっては、このレコードはきわめて興味深く響くが、明治から大正時代にかけての日本の青年にとっては、洋楽のほうこそまったく新鮮で刺激的な存在だったのだろう。



■レコード文化の変遷 <高級な音楽>「邦楽」から「洋楽」へ

 ちなみに、明治時代後期(1911)のレコード事情といえば、倉田喜弘『日本レコード文化史』(東京書籍、1979)によると、長唄、清元、新内、義太夫などが中心でピアノもヴァイオリンも声楽も歌曲の類いもない。「実は洋楽器を用いた音楽よりもここに示した種目のほうが愛好家数に格段の開きがあったしまた演奏の質も高いと判断されていたにちがいない」ということだ。明治後期にあっては、邦楽のほうが、洋楽よりはるかにレベルの高いものと見なされていた、ということになる。

 だが、大正時代も末になることには、様子がすっかり変わってくる。1923年(大正12年)大阪時事新報の記事によると

「蓄音器と云えば、浪花節のレコード時代はすでに我が国でも過去になろうとして居る。趣味の向上は二、三年来、浪花節に変わる西洋音楽のレコードとなった。随って洋楽のレコードが広く一般の家庭に歓迎されるのも遠い時代ではなさそうだ。」(1923年新聞記事)

とある。大正時代の末ごろから、ちょうど日本も西洋化の本格的波が押し寄せてくる、ということなのだろう。
 この時点あたりで、浄瑠璃よりも西洋音楽が高級である、という見方が発生してくる、と云ってもいいだろう。賢治の文学活動は、まさにこのレコード文化の変化とともに成立してくる、とも言えるのだろう。


■賢治が所有していたパデレフスキーのショパン

最後に、賢治が所有していたことが確定しているSPレコードを聴こう。
SPレコードもヴァイオリンやピアノのソロになると、俄然魅力的な音がする。1924年の録音。パデレフスキーお国自慢のショパンのマズルカ。聞いてみよう。旧吹き込みだが心地いい音だ。



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ちなみに、宮沢賢治の音楽に関して先駆的かついまでも最上の研究は佐藤泰平『宮沢賢治の音楽』(筑摩書房)であるが、私はかつて佐藤泰平先生と某短期大学の同僚(1988~1992)であった。短大のオルガニストでもあった泰平先生とは、(30年近くも前になるが)学園祭で合奏もしていただいたことがある。(バッハのBWV106の序曲。お二人のリコーダーの先生と、私がチェロ、泰平先生がオルガンで通奏低音部を受け持った)
当時、大学で泰平先生が蓄音器とSPレコードをクルマに詰め込んでいるところを何度も見たし、 SPレコードのお話を伺っても、なんの興味も沸かなかった私だった。まさかその後私がSPレコードに夢中になることも、泰平先生の著書が私のこんなに重要な愛読書になることも、まったく夢想だにしなかったことである。

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