哲学の女神(philo-sophia)。その胸元から7つの泉が湧き出し、天文学、幾何学、音楽など7科の学問が発している。女王の足下にはプラトンとソクラテスがいる。(Herrad von Landsberg - Hortus Deliciarum 1185)
〜〜〜中世写本「ホルツス・デリキアルム」リベラルアート図像を読み解く〜〜〜
■「万学の女王」としての哲学
カントは「純粋理性批判」の序論(第一版)で、形而上学について次のように述べていた。
「かつては形而上学が万学の女王と名付けられた時代があった。形而上学は、その対象の卓越した重要性ゆえに、もちろんこの尊称に値した。いまや当然のことながら、形而上学にあらゆる軽蔑を示すことが流行となり、この老貴婦人は追放され見捨てられる。いましがたまでは最高権力者、それがいまでは、追われ連れ去られていく。」(A VIII)
『純粋理性批判』はこのような現状認識から、形而上学を再興しようとするもくろみである。
ところで、カントがいう、この「かつては形而上学が万学の女王であった」する一文が私には長い間なかなかピンとこなかった。形而上学、つまりは「哲学」と言い換えてもいいだろうが、それが本当に、万学の女王、だったのだろうか。
ふとした偶然から、ある日、Philosophia et septem artes liberales(哲学と7リベラルアーツ)と題される図版を目にすることになる。
それはなんと、さまざまな学問の中心に「哲学」と書かれた女王が玉座に鎮座している図だっだ。その女王の足下には、プラトンとソクラテスがいる。回りには、天文学、幾何学、代数、音楽など7人の女神たちが描かれている。さらに、その園外には、魔術師や創作家という4人の人たちが、悪そうな黒鳥になにか吹き込まれている図がある。
哲学の女王からは、右に三本、左に4本の泉が豊かに流れ出しているように見える。
Omnis sapientia a dn o des est
Soli qadeliderani face possunt sapientes
と読める。おそらく、
すべての叡智(知恵)は神から発する。
知者だけが、これらを獲得することができる
と解読できるだろう。
◎中心円の半円下にある文字は、
Natura universe rei queri do cuit philosophia
と読める。おそらく
哲学が宇宙の物事の本質を追究する
と解読できる。
◎哲学の女王の冠は、三つの顔があって
Ethica Logica Physica
と読める。(これはもう一枚のモノクロ図像にははっきり書かれている。
倫理学、論理学、物理学、だが
これは古代ギリシャストア派の学問の3分類に
あたる。哲学の三部門、を表現していると思われる。
◎小円には、
Arte rege?s. dia. Ave. sunt. Ego. philosophia “ Subjectas artes in septes divido paprtes
と読める。これはなんと読めばいいか。
とにかくこのきわめて魅惑的な図像を解読していくのがとても楽しみだ。■哲学が女神なのはなぜか
ところで、どうして、哲学は女神なのだろうか。いろいろ調べているうちに、この図像の女神が手で抱えているモットー
omnis sapientia est a dno deo est.
(omnis はall、sapientiaはサピエンティアで知識、a は奪格をとってfromの意、dno deo はdominus deus
つまり、支配主たる神の奪格、est は英語でis)<すべての知識は神から生じる>
はどうも、古代ローマ末期のイタリアの哲学者、ボエティウスの言葉らしい。ボエティウス(480~525)は、西ローマ帝国の執政官となって栄華を極めており、王の信任を得ていたのだが、ある時あらぬ嫌疑をかけられて投獄され、処刑された。獄中で書いたのが『哲学の慰め』(De consolatione philosophiae)である。これはヨーロッパ中できわめてよく読まれた書物の一つだという。
ところで、この『哲学の慰め』は、ボエティウスと、突如牢獄に現れた哲学の女神との対話の形をとっている。なるほど!
12世紀中世写本に現れた<哲学の女神>は、その淵源を6世紀のボエティウスに求めることができそうだ。ボエティウスと哲学の女神、で探してみると、いろいろ面白い写本を発見することができる。
これは中世写本だが、哲学の女神がボエティウスのところに降りてきて教えを垂れているところである。
あるいは、次のような写本もある。これは牢獄に入れられているボエティウスと哲学の女神が対話している図だ。
<女神としての哲学>はどこまで遡ることができるのか。
なかなか楽しみな探索となった。