KUROのブログ

黒崎政男〜趣味の備忘録

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五十年後、ハインリッヒ・シュッツのLPレコード         黒崎政男

 

30年ほど前だがCDが本格的に普及してきたころ、もうLPレコードは過去のメディアだろうと考え、何百枚というLPレコードをきれいさっぱり全処分した。神保町にある中古レコード屋に引き取ってもらったのだが、すべての売却手続きを妻にやってもらった。そのせいでか、レコード屋の店主は「ご主人、亡くなられたのですか」と聞いたほどだった。

数年前、またLPレコードプレーヤーを購入して、LPレコード再生を再開した。21世紀になって音楽がみなデジタルファイル化されて気軽にいつでも聞けるようになったのだが、それは<自分が愛聴する音楽>という感じよりは、<行きずりでふわーっと耳にする音楽>という風に感じられて、これではダメだ、と思われたからである。「情報となった音楽」から「モノとして所有できる音楽」へと戻りたくなったのである。かつて所有していたLPレコードをとにかく次々に買い戻した。一枚100円や500円で売られている中古LPだったから、元のコレクションの状態に戻るまではそう時間はかからない。かつては一枚一枚足で長い時間をかけて買い集めてきたレコードコレクションだったが、今回はネット上のオークションやLP専門業者のHPを通じて、あっという間に元に戻った。

私はこの状態を<LPレコードのワルシャワ復興状態>と、ちょっと揶揄的に名付けている。ワルシャワは、第二次世界大戦中、絨毯爆撃と火炎放射を受けて、街は完全に焼け野原になった。1945年戦後すぐに、旧市街全体を「レンガのひび割れ一つに至るまで」復元するという前例のないプロジェクトが実行される。このワルシャワ復興事業は1980年のユネスコ世界遺産に登録されている。私のレコードコレクションも、実体はすっかり入れ替わったが、元通りの姿にもどったのである。

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 LPレコードの音は、ハイレゾなどのデジタル音源よりも、音がいい! こう書くと、なんとアナクロな、後ろ向き人生のような意見に響くかもしれない。だが事実なのである。私はデジタルオーディオは最先端の最上機種を所持しているし、LPプレーヤーのほうも1970年からたえまなく改良を重ねてきているイギリスの最高機種を使っている。比較してみると、音の鮮度と実在感において、結局はレコードだよね、といつもなってしまうのである。

しかし、LPレコードと一口に言ってもいろいろある。初発売当初にプレスされた初期盤がいちばん音がよいのである。同一のレコードでも後発盤やリマスタリング盤は、どんどん音が劣化していく。音場の立体感が徐々に失われていく、ここで演奏しているという臨場感から、徐々に平面的になりコピーを重ねたようなボケた感じになっていく。なにか信じられないような話ではある(これは浮世絵は初刷りが最高というのに似ている)。新しいプレスのほうが、リマスタリングされたほうが、音がいいのでは、というのがまっとうな感覚というものである。

だが中古レコード市場の価格は、はっきりと価値の差を表している。例えば、世界的に名演最高録音として名高いバルビローリ指揮ベルリンフィル「マーラー交響曲第9番」(1964年発売)のレコードは普通の後盤なら1,000円程度で買える。これがマニア用復刻盤だと5,000円程度、英国2nd盤だと9,000円程度、日本初期盤だと10,000円ぐらいする。そしてこの真のオリジナル初期盤は英国HMV盤(レコード番号ASD596-7)だが、中古レコード専門店では11万円という値段を付けており、またヤフオクの最近の落札価格は78千円。e-bayを見ると、現在ベルリンの出品者が付けている値段は、2135ユーロ(日本円で約30万円)である。とてもクレージーな感じだが、初期盤はそれだけ抗しがたい魅力的な音がする、ということなのである。

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さて、ワルシャワ復興状態にあるレコードコレクションだが、そのなかに、高校生時代(1970年代)からの私の愛聴盤であるハインリッヒ・シュッツ(1585~1672)作曲「十字架上の七つの言葉」(マウエルスベルガー指揮)がある。西ドイツ(当時)、ドイツ・グラモフォンのアルヒーフレーベルから出ているもので、100年後に生まれたJ.S.Bachの諸曲よりもこのレコードは多く聴いたかもしれない。30年前、古楽を特集した『現代思想』(199012月臨時増刊号、青土社)に、私はエッセイを寄稿していたが、そこでこのレコードについて書いていた。「これから無人島にいく。ラジオもテレビもない。なぜか、電気だけはきている。古楽のうちで一枚だけ持っていっていい、と言われたら、おそらくこの一枚(シュッツの『十字架上』)を選ぶのだろう。新しい古楽演奏ではないのだけれども、こんなに至福のやすらぎを与えてくれる音楽はほとんど存在しないのではないか、とさえ思われる」。


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高校生時代からの愛聴盤である西独アルヒーフ盤


 このレコードは、ずっと西ドイツのアルヒーフ盤が初出だと思っていた。だが今回発見してしまったのは、この演奏が、東ドイツ(当時)ドレスデンの聖ルカ教会で、東独エテルナ盤の録音技師シュトリューベン(C.Struben)によって録音されたものであることだ。この発見は私にとっては大衝撃だった。

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今回発見した同一録音オリジナルの東独エテルナ盤 

 

 というのも、またレコード蘊蓄話になって申し訳ないのだが、歴史的に名レコードといわれているのは、演奏の質もさることながら、どんな録音エンジニアによって録音されたのかが決定的に重要な要素を占めている。米マーキュリー盤のW.コザート(彼女はたった三本のマイクで、ディテイルと全体を見事に捉える)、英デッカ盤のK.ウィルキンソン(彼の録音は色彩豊か、絢爛豪華、スリル満点、といった特徴がある)などは、レコードオーディオ・マニアなら知らぬ人がいないほど有名であるが、東ドイツ時代の東独エテルナ盤も、滋味深くナチュラルな響きで根強い人気がある。それを象徴する録音技師がシュトリューベンで、私はこのところ、夢中で彼の録音したレコード(オイゲン・ヨッフムやクルト・マズアやルドルフ・ケンペらがドレスデン国立歌劇場管弦楽団を指揮した数多の曲)を集めていたのである。そうしたら、そこにシュッツの「十字架上の七つの言葉」のエテルナ盤レコードがあるではないか。指揮は何とマウエルスベルガー・・・アルヒーフ盤のオリジナルはこのエテルナ録音だったのだ。50年前から拘りつづけた録音がなぜ私の特別な愛聴盤となっていたのか。その理由が今回、なんだかやっと明らかになったような気がしている。

(くろさき・まさお 東京女子大学教授・哲学)



五十年後のハインリッヒ・シュッツ
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ブルックナー9スコア
(ブルックナー交響曲第九番第一楽章の自筆譜 巨大な音の集合体)


無伴奏と大編成

 

 

私は若いころから、長い間、最高の音楽、もっとも精神性の高い音楽は<無伴奏>だと考えていた。もちろん念頭にあるのは、J.S.バッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001~1006)や「無伴奏チェロ組曲」(BwV1007~BWV1012)であることは間違いない。しかし、なにもバッハだけに限るわけではない。たとえば、普通はなんとなく気楽な曲でみちているテレマンでも、彼の「無伴奏フルートのための12の幻想曲」の崇高性や孤高性はどうだ。あるいは、C.P.Eバッハの「無伴奏フルートソナタイ短調」だとてその幽玄な精神性はなんともすばらしい。

へリンク・シェリングの演奏するバッハの無伴奏バイオリン(グラモフォン、ステレオ盤、1967年)は、それを聞いていると、極めて実存的な気持ちになった。
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私がこうやってここに存在していることの深淵のようなものを抉ってくるような極めて精神的な演奏だった。それは1人の人間が孤高に向かって語る無伴奏だからこそ、と感じていた。演奏は、私からすれば、デュオ、トリオ、カルテットと編成が大きくなればなるほど精神性は薄らいでいく。その頃はこう固く信じていた。

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ところが還暦をすぎたころから、無伴奏とは正反対の、大編成オケの音楽がとても魅力的に感じるようになってきた。例えば、後期ロマン派アントン・ブルックナーの交響曲。その編成の巨大さは、無伴奏のソロ楽器とは対極にある。例えばブルックナー最後の交響曲第九番では、楽器編成はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーンが各3本。ホルン8本、バスチューバ1本、ティンパニ1台、弦楽5部。音は超多彩で超分厚い。楽譜をみれば1ページに6小節しか書けないほど、巨大な音の集合体である。五線譜が25段もある。これが同時に鳴る。巨大なカトリック聖堂に飾られている多くの彫刻の聖者たちが一斉に声をあげてくる感じだ。作曲者自身、どんな音の重なりになっているのか、この楽譜でどのぐらい想像できているのだろうか。指揮者はこの楽譜を見て、どのぐらい具体的に音を想像できるのだろうか。1ページに一曲が書かれてしまう無伴奏とはまったく別の世界である。
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ブルックナーの交響曲第九番を聞いていると、――だいたいは1960年代の名演(オイゲン・ヨッフムやカール・シューリヒト指揮)を当時のLPレコード(初期盤)で聞くのだがーーいや、聞いているというよりは体験しているという感じで、喩えていえば、なにか宗教的儀式のなかに包まれているという体感。きわめて崇高だが深く癒やしてくるような音の洪水。「無伴奏」にあった「精神性」というよりは、むしろ、「魂が浄化される」といった趣である。約60分の法悦の時間があっという間にすぎていく。

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ブルックナーの魅力にとりつかれるようになったきっかけは、しかしながら、精神性や宗教性とかいった問題ではなくて、実はオーディオ・チェック・レコードとして、とにかく巨大編成オーケストラのものを選んだだけ、というきわめて即物的なものにすぎなかった。

 オーディオという趣味は、LPレコードをいかにいい音で鳴らすかという1970年代から80年代にかけて大ブームとなったものだ。当時、多くの家で男子は巨大スピーカーや多くのアンプを並べて「いい音」を出すことに苦心していた。その後、気楽にまあまあの音がするCDipodで聞けるデジタル・ファイル音源などが登場してきて、オーディオブームは大きく下火となった。

だが、実はオーディオ装置は今日にいたるまで、着々と進化を遂げてきているのである。昨今のアナログ盤ブームは、単に昭和へのノスタルジーとしてレコードを聴く、というだけにとどまらず、LPレコードが実にすばらしい音でなるようになって来ていることも要因のひとつだ。当時は無伴奏のレコードは比較的いい音で鳴ったが、大編成オーケストラは、音が団子の固まりになって、ごろんとなるだけ。なんの魅力も感じようがなかったのかもしれない。しかし最新の進化したオーディオ装置でそのLPレコードを聴けば、従来なら分離せず固まりになっていたのがクリアに文節化する。私のLPプレーヤーのトーンアームやカートリッジや回転系モーターのグレードが上がるたびに、編成の大きな音楽が魅力的になるようになった。例えば、オーケストラ内でクラリネットとファゴットのデュオもそれぞれの音色が心地よく聞こえる。全楽器でフォルテシモのフィナーレも音が割れることもなく、きわめて心地よく音楽が鳴り響きわたる。LPレコードからここまでのいい音を引き出したのは、21世紀の我々なのではないだろうか。かつては決してこんないい音は誰も聞けなかったろう。そして、LPレコードの一本の溝(グルーブ)に、まだまだ無限の宝が眠っているようにさえ感じる。
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こんなわけで、無伴奏曲や巨大編成オケ曲にどう魅力を感じるのかは、実はオーディオ装置のクオリティの問題に帰着するのかもしれない。<精神性>から<魂の浄化>への変化は、おそらく<装置>という下部構造に規定されていたのかもしれない。

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鶴田留美子ピアノリサイタル。昨年から、ピアノ協奏曲のオーケストラ部分を室内楽編成にした版を使用して、コンチェルトまでレパートリーを広げる、という手品のようなアイデア。昨年はこのおかげでショパンのピアノ協奏曲2番をサントリーホール・ブルームローズで堪能することができた。今年はそして、なんとモーツアルトの名曲中の名曲、ピアノ協奏曲20番二短調K466だ。なんというど真ん中。27曲あるモーツアルトのピアノ協奏曲のなかでもこの二短調はひときわ最高峰。今日はとても楽しみだ。

 それにしても、オーケストラ大編成と室内楽編成のこの差、オーディオ装置だったら、どういう装置でどう聞くのか、大問題となるのだろうが、ライブだとこの問題は一切生じてこないように思う。なぜだ、なぜなのか。生と録音再生の間にはどんな差があるのだろうか。こんなことを考えながら、今日は鶴田留美子のショパンとモーツアルトを堪能することにしよう。
(この文章は、鶴田留美子ピアノリサイタル'21(サントリーホール9/11)のパンフレットに寄稿したものである)

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鶴田留美子パンフレット表
 


 

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『惑星ソラリス』は、アンドレイ・タルコフスキーの監督による1972年の旧ソ連の映画。この作品は、スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)と比肩されるSF映画の傑作である。
タルコフスキー監督は『僕の村は戦場だった』(1962)、『鏡』(1975)や『ノスタルジア』(1983)などの多くの名作を残したが、中でもこの『惑星ソラリス』は圧倒的なすばらしさであり、タルコフスキーの名を不朽のものにしたと言える。荒廃した宇宙ステーションを舞台に、独特の映像美で、カットも途切れず延々とカメラが回り続ける。
 惑星ソラリスの表面全体を覆う<海>は、知性を持つ巨大な存在で、複雑な知的活動を営んでいる。主人公の心理学者クリスは、美しい緑と水に囲まれた地球の我が家をあとに、謎の惑星ソラリスに出発する。ソラリスにある観測ステーションは原因不明の混乱に陥っていて、その原因究明と打開のためだった。そして到着した宇宙ステーションは異様な静寂と甚だしい荒廃が拡がっていた。
 幾日かして、突然クリスの前に10年前に自殺したはずの妻ハリーがあらわれる。驚いたクリスはそのハリーをロケットに詰め込んで宇宙に飛ばしてしまう。しかし、また、何事もなかったように妻ハリーが目の前に現れる。妻ハリーは、実は、ソラリスの海が送ってよこした存在で、<海>はクリスの潜在意識を探り出してそれを実体化していたのである。つまり、ソラリスは、主人公の記憶を再合成して、自殺した妻を主人公の前に送り出してきているのである。妻の自殺に悔恨の思いを抱いていたクリスは、狂気のふちに立たされながら遂には幻のハリーを愛するようになる。
 このようにして、タルコフスキーの映画はかなり深遠な形而上学的問いを突きつけてくる。そして全編を通して、たった一曲の音楽だけが使われる。
 それがバッハのコラール・プレリュード「主イエスよ、私はあなたを呼ぶ」へ短調(BWV639)である。失われたものに対する哀惜の念をやるせなくかき立てるような、感情の深いところを揺さぶるような音楽である。アンドレイ・タルコフスキーの映像とスタニスワフ・レム原作の内容に合わせると、魂の内奥をえぐるような響きを醸し、まさに奇跡的、ともいえる絶妙さでマッチしている。
 もう一つのSF映画の傑作、キューブリックの『2001年宇宙の旅』の音楽は、ヨハン・シュトラウスのワルツ「美しく青きドナウ」、現代音楽のジェルジ・リゲティ、そしてリヒャルト・シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」などが極めて効果的に使われていて、それがこの作品を不朽の名作にした。だが、アメリカの『2001年』(1968)を意識し、それに対抗するように製作されたソ連の『惑星ソラリス』(1972)は、全編を、たった一本のバッハのオルガンコラール(シンセサイザーで演奏されている)だけで覆い尽す。この音楽は映画全体のモードを見事に統一している。
 映画の最終場面。妻ハリーももう出現しなくなり、一応、クリスは地球へと帰還することになった。映画冒頭で出発前に散歩していた美しい緑と水に囲まれた我が家に再び帰ってくる。喜ぶクリスだが、なんとなく光景がおかしい。なぜか建物の家の中だけに雨がふっているのである。そしてカメラが突然、後方に引いていくと、沼や緑や家の全体が見通せる。さらにカメラを引いていくと、その家などは、なんと、惑星ソラリスの海に浮いている我が家だったのである。そこは地球ではなくて、いまだソラリスの海のなかだったのである。なんという絶望的なことだろう。なんという救いのなさ。
 
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惑星ソラリス (1 - 1)
1977年日本上映当時のパンフレット、
岩波ホール


 
 いまこの映画を、you-tubeで探してしばらくぶりに見直してみる。ワンシーンが極めて長く、映像が深く重く場面展開もほとんどない全編165分の長時間映画。1970年代には夢中で観ていれたものだが、21世紀の我々には全編をじっくり見通す力が欠けてしまっていることに否応ナシに気づかされる。こんな場合には、この映画の中で最も有名な「無重力シーン」(3分程度の長さ)だけでも観てみるといい。蝋燭立てが、空中をゆっくりと浮遊して天井の大きなシャンデリアに触れる。シャリーンと音を立てる。そしてくつろいだ様子のクリスとハリーが空中浮遊をしているような映像となる。このシーンでも、「主イエスよ、我はあなたを呼ぶ」BWV639が深々と鳴り渡るのである。
 この曲は、バッハのコラール前奏曲集の中でも、もっとも人気のある「オルゲル・ビューヒライン」(オルガン小曲集BWV599〜644)に納められた一曲である。私はこの曲集は、ヘルムート・ヴァルヒャ(オルガン)が弾くアルヒーフ盤二枚組のLPレコードが愛聴盤なのだが、バルヒャのこの曲BWV639の演奏は、まったくさっぱりと演奏されている。あっさり、さらり、と終わってしまうのである。絶望も救済も感じられない。


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 しかしこの曲のすばらしい演奏がある。夭折の天才ピアニスト、ディヌ・リパッティが残した演奏。ジュネーヴで1950年7月、亡くなる半年前にスタジオ録音されたものだ。ここには演奏家の深い思い入れが感じられる。それは特に、曲の終わりのカデンツのところ。ずっと短調の響きが続いてきたのだが、最終和音で、短調の響きから、最後の最後、ふっとうっすら明るい長調の響きに変わる。as(変イ音)で終わるべき第三音が半音上がってa(イ音)になっている和音のようだ。これはブゾーニがピアノ用に編曲したものではあるのだが、このコラールは、あたかも、魂の深い絶望と救済へのかすかな希望が表現されているように思われる。


再生装置 EMT930st + WE205Fppアンプ + タンノイsilver 38cm  同軸2way in EMG box

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25cmLPレコード リパッティ「バッハ集」columbia Pathe Marconi



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(この文章は、「2019/9/7 鶴田留美子ピアノリサイタル(サントリーホール)」のパンフレットに寄稿したものである。次の文章で締めくくっている)
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 今日の鶴田留美子ピアノリサイタルでは、二曲目でこの「主イエスよ、私はあなたを呼ぶ」BWV639が弾かれることになっている。鶴田はどんな演奏を聴かせてくれるのだろうか。とても楽しみにしている。といっても、この曲はわずか3分足らず。心して耳を傾けよう。

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