KUROのブログ

黒崎政男〜趣味の備忘録

タグ:LP12

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マーラー九番演奏後。N響・指揮者ブロムシュテット 2022/10/15 (撮影許諾あり)


マーラー交響曲第九番。なんというすごい曲なのだろうか。人間が、その「生と死について」これまで描き表現してきた幾多の芸術作品のなかでも、このマーラーの最後の交響曲は、それを極限まで描ききった人類の最高地点の表現なのではないだろうか。名声を求めたり、嫉妬したり、病に苦しんだり、不機嫌な日々をすごしたりして結局は死にゆく人間が、自らの生と死について、ここまで崇高な形でそれを表現しえたなんて。

これが今日、齢95歳のヘルベルト・ブロムシュテットがN響を振ったマーラー交響曲第九番を聴いて(聴いてというよりは身体全体で体感して)感じた率直な感想だった。
ほぼ神がかった、としか言い様のないようなとんでもない演奏。2楽章がこんなに精緻で美しい楽章だと思ったこともなかったが、やはり白眉は4楽章。重厚な弦楽器の分厚い響きのこの世のものとも思われない美しさ。さまざまな木管楽器や金管楽器が最後は切れ切れに永遠の沈黙の中に消えていくピアニッシモ。死とはこのような形でやってくるのだ、このようにして死に入っていくのだ、というあり方をここまで崇高に描けることがいったいあるだろうか。

実は前の晩、マーラー9番の最高の演奏と目されることもある、バーンスタイン指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(1985年)のLP初期盤の4楽章を聴いて、鳥肌がたつほど感動してしまっていた。こんな歴史的大名演を聴いてしまって深く感動してしまって、1回勝負のライブと比較したら申し訳ない、と、こんな気持ちで、夕刻のNHKホールに向かったわけだったからである。
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レナード・バーンステイン指揮 マーラー9番4楽章(途中)

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再生装置。アンプは自作でウェスタンエレクトリック社の1920年代制作の真空管を
使用している


 

ブロムシュテットは、最近ではブルックナー7番を結構愛聴していたので、40年近く隔たった同じブロムシュテットを聴くのはとても奇妙な感じではあった。
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しかし、とにかく今日の演奏会は、なにかほんとの一期一会のような、とんでもなくかけがえのない体験をしたように思われたのである。

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日本盤、ドイツ盤、英国盤、米初期盤、米初期盤(mono)、などなどいろいろ揃った。



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初期盤

 ふだん、よく聞くエリントンのLPに、「ザ・ポピュラー デューク・エリントン」(RCA PG-29、1976)というがある。初期盤とかオリジナル盤とかいった興味が発生する前に1000円程度で買った、普通の日本盤。これが実にいい音でなるので、よく掛けていた。
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先日(2021年12月)、知り合いたちがきて、SPレコードやらを選択していたのだが、ちょっと、私の新しいオーディオ装置を聞いてみたい、と誰かが言い出して、ついに、LINN Klimax DSM/3のお出ましとなった。

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そのとき、ちょいと掛けたのが、このThe Popular Duke Ellingtonだったのだ。一同、感心して、LPレコードはすごいね、ということになった。私が自慢げに「これ、ぜんぜん初期盤でもないし、ただの国内盤、しかも、後盤なんだけど。でも、すごい音でしょう」というと、ある一人が「じゃあ、初期盤だったら、とんでもなくすごいじゃない?」ときた。
うーん、たしかに。。私はこのアルバムは、国内盤後盤で全然満足していたのだが、この言葉をきっかけに、急に初期盤を試してみたくなったのだった。

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このLPはeBayなどで初期盤を探すと、けっこう安価で入手できる。それほど初期のLPでもなく、また、大量に売れたLPなので、こういうことになるのだろう。
そして、結果は。。

実在感が違う。空間の広がりが大きい。ひとつひとつの音に重み、というか、存在感がある。では、というので国内盤に戻ってみると、。。あれれ、空間が小さい、音ひとつひとつが軽く薄い。。

例えば、 A4曲目のMood Indigo 、冒頭近く、バスクラリネットとミュートトロンボーンのユニゾンのようなものすごい音のムード!。(日本語盤解説(油井正一氏のいいものだ)がついている。国内盤がいいのは、このレベルの高い解説がついていることだ。これによれば、)後半のソロ・ クラリネットは、ラッセル・プロコープだが、ほんとにご機嫌な演奏だ。








ところで、これらの盤をいじっているうちに、ちょっとしたことに気がついた。それぞれのレコードジャケットで、エリントンの頭の位置が違う!のである。

(左から、Original US MONO盤、Original US Stereo盤、日本盤)

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左のMono盤は、頭がやたら上にあって、したがって、足が靴までちゃんと見える。真ん中の Stereo盤だと足が切れている。国内盤は、ちょうどその中間、といった感じだ。なんでこんなことになるのだろうか。面白すぎる。おそらくMono盤が一番真っ当なのだろうと思う。

ところでさらに、オリジナル盤は、赤い大きなELLINGTON の 文字が背景との間で白抜きになっているが、日本盤は文字がベタに写真の上に乗せてある。明らかに手抜き、の感じ。顔色もちょっと灰色ががっていて悪い感じ。
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オリジナル盤。赤文字がちゃんと白抜きされている。


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日本盤。 ELLIN の文字がただべたっと写真の上にのっけてある。




しかし、50年以上も経って、ユーザーにこんな違いの指摘をされるとは製作者は夢にも思わなかっただろう。


しかし、それにしても、後発盤がいい場合には、初期盤はもっといい、ということだ。(ただし、初期盤は経年変化を経ていて、盤面が荒れていたりすることも多い。後盤で状態がいいのと、初期盤で悪い状態なのだととても難しいことになる。)

 

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このところ、LPレコード三昧の日々が続いている。LINN社のレコードプレーヤーLP12のモーター部と電源部の改良版がリリースされた(Radikal2)ので、さっそく入れ替えてもらったのがきっかけだ。LPレコードの音がさらに一段とよくなって、レコードを鳴らすのが楽しくてしょうがない、という感じになっている。


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モーター交換後のLP12   外見はまったく変わらない


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LP12の電源部。基板の交換でバージョンアップができる

ウィルマ・コザートという女性録音技師が、ステレオLP黎明期の50年代から60年代にかけて、アメリカのマーキュリー盤に残した数々の超名録音の数々。そのなかでも、ほぼ衆目の一致する最高のレコードといえば、アンタル・ドラディ指揮のストラヴィンスキー「火の鳥」
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これは、LINNのLP12を改良し続けて、先日、新しく提供されたモーター部を(Radikal )と電源部に差し替えて、さらにLPレコードがとんでもない音、おそらくこれまで誰も体験したことがないLPレコードの音を引き出してくれる、とそう妄想したくなるほど、とんでもなくすごい音がしたのである。





火の鳥は、もう再生、というのではなくて、時間と時を超えて、オーケストラそのものを、この場所に招聘して弾いてもらっている、という感覚である。しかも、私が自由にその演奏中に場所を移動したり、感想を発したり、ということができる、というとんでもない快楽。オーディオの醍醐味の極地だろう。(これはファーストマザーのファーストプレス、という一番の初期盤、であることが欄外の数字から分かる)

こんなレコードがほかにもないだろうか。
同じくコザートが残した、シュタルケル(cello)のドボルザーク協奏曲なども、常に「火の鳥」と並んで超絶名録音とされているのだが、私にはなかなかピンとこない。所有しているのは、マーキュリー盤の2nd盤だからなのか。盤面の状態もあまり好ましくないからか。
(Deccaの録音技師ウィルキンソンが残したすばらしい録音群は、もちろん多数ある。ショルティの『春の祭典』やブルゴス『アルベニス』、アンセルメの「オペラガラコンサート」などなど。このウィルキンソンの初期盤レコードに関しては、先日、オーディオ評論家の山之内正さんが拙宅を訪れて対談した。そのうち、雑誌にその様子が紹介されることになると思う。ので、ウィルキンソン盤はいまは除外する)

そこで出会ったのがクリュイタンスのラヴェル管弦楽曲集。ヤフオクで
本邦初出,半掛帯付/クリュイタンス,パリ音楽院管/ラヴェル管弦楽曲全集(JAPAN/ANGEL:AA-9005-D RED WAX 4LP BOX SET
とあって、この手の最初期盤は日本盤でも音がよい、と直感したのである。さっそく落札して、手に入る。
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ラヴェル「クープランの墓」から第二曲目を聞いてみる。




このクリュイタンスの日本初期盤はほんとにいい。実にいい。マーキュリー盤コザートの明るい明示的な音色とは、ニュアンスが少し異なるのだが(もちろん、曲がそもそも異なるのだから、異なるのは当たりまえなのだが)木管楽器の音色の美しさ、オケの音場感のすばらしさ、きわめてニュアンスの感じられる再生音だ。日本盤でも最初期盤なら、ものによってはすばらしい音がするのかもしれない。実はこのクリュイタンスのラヴェルは、私のながい間の愛聴盤(CDで)だったので、演奏が飛び抜けて素晴らしいのは分かっていたのだが、録音がこんなに絶品だったとは、今回初めて理解したのである。

録音技師ウィルマ・コザート(Murcury)やウィルキンソン(DECCA)の録音だけでなく、ほかにもすばらしい名録音が山のようにある!と期待した一夜である。






<補足>
ふと気になって、レコード棚を検索すると、なんと、このクリュイタンスのフランス盤、しかも初期盤とおぼしきものを私は所有していたのだった。あれ?!持ってた?だった。


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もちろん、こちらのレコードもすごい音がした、とだけ記しておこう。比較や初期盤うんぬん、などはまたの機会に。



 

ブルックナー9スコア
(ブルックナー交響曲第九番第一楽章の自筆譜 巨大な音の集合体)


無伴奏と大編成

 

 

私は若いころから、長い間、最高の音楽、もっとも精神性の高い音楽は<無伴奏>だと考えていた。もちろん念頭にあるのは、J.S.バッハの「無伴奏バイオリンのためのソナタとパルティータ」(BWV1001~1006)や「無伴奏チェロ組曲」(BwV1007~BWV1012)であることは間違いない。しかし、なにもバッハだけに限るわけではない。たとえば、普通はなんとなく気楽な曲でみちているテレマンでも、彼の「無伴奏フルートのための12の幻想曲」の崇高性や孤高性はどうだ。あるいは、C.P.Eバッハの「無伴奏フルートソナタイ短調」だとてその幽玄な精神性はなんともすばらしい。

へリンク・シェリングの演奏するバッハの無伴奏バイオリン(グラモフォン、ステレオ盤、1967年)は、それを聞いていると、極めて実存的な気持ちになった。
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私がこうやってここに存在していることの深淵のようなものを抉ってくるような極めて精神的な演奏だった。それは1人の人間が孤高に向かって語る無伴奏だからこそ、と感じていた。演奏は、私からすれば、デュオ、トリオ、カルテットと編成が大きくなればなるほど精神性は薄らいでいく。その頃はこう固く信じていた。

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ところが還暦をすぎたころから、無伴奏とは正反対の、大編成オケの音楽がとても魅力的に感じるようになってきた。例えば、後期ロマン派アントン・ブルックナーの交響曲。その編成の巨大さは、無伴奏のソロ楽器とは対極にある。例えばブルックナー最後の交響曲第九番では、楽器編成はフルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、トランペット、トロンボーンが各3本。ホルン8本、バスチューバ1本、ティンパニ1台、弦楽5部。音は超多彩で超分厚い。楽譜をみれば1ページに6小節しか書けないほど、巨大な音の集合体である。五線譜が25段もある。これが同時に鳴る。巨大なカトリック聖堂に飾られている多くの彫刻の聖者たちが一斉に声をあげてくる感じだ。作曲者自身、どんな音の重なりになっているのか、この楽譜でどのぐらい想像できているのだろうか。指揮者はこの楽譜を見て、どのぐらい具体的に音を想像できるのだろうか。1ページに一曲が書かれてしまう無伴奏とはまったく別の世界である。
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ブルックナーの交響曲第九番を聞いていると、――だいたいは1960年代の名演(オイゲン・ヨッフムやカール・シューリヒト指揮)を当時のLPレコード(初期盤)で聞くのだがーーいや、聞いているというよりは体験しているという感じで、喩えていえば、なにか宗教的儀式のなかに包まれているという体感。きわめて崇高だが深く癒やしてくるような音の洪水。「無伴奏」にあった「精神性」というよりは、むしろ、「魂が浄化される」といった趣である。約60分の法悦の時間があっという間にすぎていく。

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ブルックナーの魅力にとりつかれるようになったきっかけは、しかしながら、精神性や宗教性とかいった問題ではなくて、実はオーディオ・チェック・レコードとして、とにかく巨大編成オーケストラのものを選んだだけ、というきわめて即物的なものにすぎなかった。

 オーディオという趣味は、LPレコードをいかにいい音で鳴らすかという1970年代から80年代にかけて大ブームとなったものだ。当時、多くの家で男子は巨大スピーカーや多くのアンプを並べて「いい音」を出すことに苦心していた。その後、気楽にまあまあの音がするCDipodで聞けるデジタル・ファイル音源などが登場してきて、オーディオブームは大きく下火となった。

だが、実はオーディオ装置は今日にいたるまで、着々と進化を遂げてきているのである。昨今のアナログ盤ブームは、単に昭和へのノスタルジーとしてレコードを聴く、というだけにとどまらず、LPレコードが実にすばらしい音でなるようになって来ていることも要因のひとつだ。当時は無伴奏のレコードは比較的いい音で鳴ったが、大編成オーケストラは、音が団子の固まりになって、ごろんとなるだけ。なんの魅力も感じようがなかったのかもしれない。しかし最新の進化したオーディオ装置でそのLPレコードを聴けば、従来なら分離せず固まりになっていたのがクリアに文節化する。私のLPプレーヤーのトーンアームやカートリッジや回転系モーターのグレードが上がるたびに、編成の大きな音楽が魅力的になるようになった。例えば、オーケストラ内でクラリネットとファゴットのデュオもそれぞれの音色が心地よく聞こえる。全楽器でフォルテシモのフィナーレも音が割れることもなく、きわめて心地よく音楽が鳴り響きわたる。LPレコードからここまでのいい音を引き出したのは、21世紀の我々なのではないだろうか。かつては決してこんないい音は誰も聞けなかったろう。そして、LPレコードの一本の溝(グルーブ)に、まだまだ無限の宝が眠っているようにさえ感じる。
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こんなわけで、無伴奏曲や巨大編成オケ曲にどう魅力を感じるのかは、実はオーディオ装置のクオリティの問題に帰着するのかもしれない。<精神性>から<魂の浄化>への変化は、おそらく<装置>という下部構造に規定されていたのかもしれない。

    ★

鶴田留美子ピアノリサイタル。昨年から、ピアノ協奏曲のオーケストラ部分を室内楽編成にした版を使用して、コンチェルトまでレパートリーを広げる、という手品のようなアイデア。昨年はこのおかげでショパンのピアノ協奏曲2番をサントリーホール・ブルームローズで堪能することができた。今年はそして、なんとモーツアルトの名曲中の名曲、ピアノ協奏曲20番二短調K466だ。なんというど真ん中。27曲あるモーツアルトのピアノ協奏曲のなかでもこの二短調はひときわ最高峰。今日はとても楽しみだ。

 それにしても、オーケストラ大編成と室内楽編成のこの差、オーディオ装置だったら、どういう装置でどう聞くのか、大問題となるのだろうが、ライブだとこの問題は一切生じてこないように思う。なぜだ、なぜなのか。生と録音再生の間にはどんな差があるのだろうか。こんなことを考えながら、今日は鶴田留美子のショパンとモーツアルトを堪能することにしよう。
(この文章は、鶴田留美子ピアノリサイタル'21(サントリーホール9/11)のパンフレットに寄稿したものである)

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鶴田留美子パンフレット表
 


 


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友人がインスタにモーツアルト「レクイエム」でこのCDを挙げていた。気鋭のロシアの指揮者クルレンティスの演奏はきわめて鮮烈らしい。けど、私が反応してしまったのはこのジャケットの絵。なんとも魅力的な絵ではないか。ネットで調べてみると、原画はギリシャ正教の12世紀のイコン画。
あまりにジャケットが気に入ったので、LPレコードとしても発売されていたので、絵が大きく見えるLP版を入手した。回転数が33rpmではなくて45rpm。

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回りでみんなが、ちゃんと天国にたどり着けるか、見守っている。これが「レクイエム」のジャケットになるなんて興味深すぎる。天国にたどり着けない死者もいるよ、っていうことなのかもしれない。指揮者のクルレンツィスはギリシャ出身だから、もしかしたらもともとギリシャ正教のイコンにはなじみがあるのかもしれない。
なんとも新鮮で鮮烈で土俗的なモーツアルトだろう。ワルターのレクイエムを聞き慣れた耳には、おそろしく強烈に響く。

 

再生装置は、LP12 +Klimax DSM + EXZAKT Akudorik
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ところで、この「天国への階段」の絵を眺めていて、ふっと思い出したのが、二年前ぐらいにオークションで落札していた掛け軸。

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なんだか分からないけど面白い絵柄だなあ、と思ってオークションで落札した掛け軸だが調べてみると二河白道図、という伝統的な仏画らしい。浄土教における極楽浄土を願う信心の比喩らしく、手前の岸は現世。上段の岸は来世で、南は火の赤い河、北は渦巻く水の河。うまく渡りきれるか。。

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賊徒や猛獣たちが現世から、追いかけているのやら応援しているのやら。

洋の東西、同じような発想をするものだ、と考えるか、あるいは、東西の文化交流のなかでどちらかが影響を受けたものなのか。ちょっと面白いテーマである。
 

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